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一宮友歩会・第21回ウオーク例会 
 河川探訪五条川編Part2参加  (平成21年7月4日(土)天気:晴れ)
Part1はこちらです。)

コース:7:10自宅発(おにぎり等持参)−名鉄バス5番乗り場岩倉行き8:00−岩倉駅8:22着
 −神明生田神社−出発9:20−井上城址跡−曽木公園− 八大龍王社−宝頂山墓地−
 −富士塚−堀尾公園(昼食)−小口城跡−荒井の堰(木津・五条等の水流管理)−
 −小弓の庄(ゴール、名鉄小牧線羽黒駅)−帰宅 
 (今日の歩数:36395歩)(例会参加者:51名)
梅雨時の晴れ間、五条川沿いに約14km、桜並木の緑陰を涼しい風に吹かれて心地よく
 歩くことができた。途中の新井の堰では、川の合流・分流・水量調節などを広瀬家が担当し
 ていたという説明を受けて、稲作に伴う水田の水管理の苦労を知ることが出来た。

五条川(総延長約43km。延々と桜並木が続いているのは壮観である。)
見所説明は、友歩会第21回例会案内を参照してください。)下記解説参照)
神明生田神社(加藤さんのブログ) 小弓の庄(解説)


名鉄一宮駅Dバス停 出発は 8:00岩倉行 001

神明生田神社の一豊生誕の碑8:35 006

神明生田神社東の五条川 8:40  011

ラジオ体操を済ませて生田神社出発9:18 014

緑の五条川桜 9:36 023

岩倉市五条川の桜 9:36  024

井上城址 (下記参照) 9:52 032

ホタルの寺本曽寺の説明 10:07 037

八大龍王社説明 10:16 043

桜の巨木 047  10:25

宝頂山墓地(生駒家)(下記参照) 057 10:35

富士塚の碑(下記参照) 061 10:47

尾北自然歩道 069 11:05

堀尾公園で昼食(出発は12時)072  11:10

五条川に掛かる裁断橋(堀尾公園)076 11:41

五条川両岸の桜 097 12:29

小口城跡101 12:53

小口城址公園の展示 105 12:54

望楼からみた入り口付近 108 13:02

暴水流亡各霊墓(下記参照) 118 13:16

荒井の堰(五条川の取水)126 13:34

木津用水(左)五条川(右)合流点12713:34

五条川の取水口 132 13:46

右の五条川(水源入鹿池)を遡る134 13:47

再び五条川左岸を歩く 135 13:48
桜の緑陰の中、涼しい風が吹いて心地よかった。

ゴールの小弓の庄(犬山市羽黒)141 14:28
(旧加茂郡銀行羽黒支店を復元)

主な見所の説明(友歩会例会案内等より引用)

◎井上城
 15世紀の初め頃、井上村には有馬主殿正が城を構えて、井上庄17ケ村を領有していた
が、嘉吉元年(1441)尾張の守護代・織田郷広に攻められ、井上城は落城したという。
その後、「尾張志」によると重松生水正という人が居住している。
 岩倉城の織田敏広の舎弟織田広近は1459年小口城を築き、1469年には犬山に木之
下城を築いて美濃に備えた。そして小口城には岩倉譜代衆の中島左兵衛尉が「井上城」から
小口城に移った。その後の井上城については、16世紀中頃に、信長の生母土田御前の一族
である土田弥兵次が居城していたという説がある。
弥兵次の妻は隣村・小折村の生駒家宗の娘・類女(後の吉乃)である。

◎宝頂山墓地
 生駒家の墓所。右端から信長の室「吉乃の方」の兄にあたる生駒家四代家長夫妻の五輪塔
と五代利豊夫妻の石廟、そして十代周房の墓碑。石廟形式の墓は大名など格の高い人に見ら
れるが、この近辺ではこの墓地だけ。
住居建築の切妻の屋根形をした石造りの墓で、中に石塔などを安置している。
 この一角は利豊の隠居所であったといわれ、言い伝えによれば、晩年は生きながらにして
成仏することを願った利豊の心情を思い、六代利勝が住居にふさわしい墓を造った。
この石廟の側壁には生駒家六代利勝が筆を取った夫妻の事績が彫ってある。
利豊は幼い時より秀次に近侍し、16歳で小田原合戦に従軍、秀次の自刃後は秀吉に仕え、
関ケ原の戦いでは徳川方として功績をあげている。その後、尾張藩主徳川義直に仕えて大坂
夏の陣に従軍、寛文10年(1670)96歳の長寿でこの世を去っている。

◎富士塚
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、徳川家康が織田信雄とともに小折の
城を訪ねた帰途、この富士塚に立って敵情を視察した。
このゆかりの塚に6代目の利勝(5代利豊の養子)が、初代家広からの由緒と武勲を後世に
伝えるため、天和2年(1682)2月、林羅山の孫の信篤に碑詞を依頼し、石碑に刻んで
亀形の台石の上に立てた。「お亀塚」とも呼ばれる。

◎暴水流亡各霊墓
 寛永10年(1634年)2月かんがい用溜池として築造され,この地方の新田開発を促した
入鹿池が明治元年(1868年)4月から5月にかけて降り続いた長雨(少しずれているが梅雨
のこと)により水量が激増、5月14日夜あけに大音とともに堅固を誇った大堤防が決潰し
た。流れ出した池水は、一気に低地に向かって流出、尾張富士、本宮山の山峡を駈け下り、
両方の62カ村を流亡し、なお余流は数百カ村に流入したといわれる。
丹羽、春日井、中島、海東の4郡133カ村で流失家屋807戸、浸水家屋は床上、床下あわ
せて11,709戸、死者941名、負傷者1,471名、流没した耕地8,480町歩余の大きな被害を出し
た。
 大口町中小口地内五条川六部橋西端には、このときの大水で亡くなった人々の冥福を祈る
ように、暴水流亡各霊墓が建っている。 

◎小弓の庄
 旧丹羽郡の犬山地区一帯は藤原氏領の荘園で「小弓庄」と呼ばれ、室町時代には「尾張国
小弓庄内犬山領家職」と表現され羽黒がその中心であった。羽黒の歴史を伝える施設という
ことで「小弓の庄」の名が付けられた。この建物は地元の吉野利左衛門が明治40年代に「
加茂郡銀行羽黒支店」として旧稲置街道(現県道)に面して建築したもの。その後大正11年
に「東濃銀行」に改称。昭和3年には大垣共立銀行に吸収合併されて同行の支店となった。
昭和5年羽黒支店廃止、同6年に地元の福富氏購入。8年頃から移築。近年では住宅として
使用されてきた。犬山市では所有者の解体意向を機に平成11年に羽黒のまちづくり拠点と
して復元した。建物は、寄棟造桟瓦葺で明治期擬洋風の二階建て和風建築である。
敷地面積:996u。建築面積:167.87u。木造2階建。(0568-68-3767)
犬山市羽黒字古市場53-1

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