H22.11.28 晩秋の犬山城散策
     (平成22年11月28日(日)天気:曇り) 今日の歩数:17,575歩

11月28日、犬山城・上廣歴史フォーラム(第6回)「アーネスト・サトウの人生と明治維新」
を聴講した。その前に国宝犬山城(別名、白帝城)を見学し、講演会の後、犬山市文化
資料館において「明治維新と犬山」企画展を見学した。

講師は、作家・書誌学者の林望氏。林氏はA・サトウが、明治維新の前後に日本の書籍
を収集して日本をイギリスなどに紹介したこと、また、日本を歴史・文化・芸術等全分野に
渡って研究したイギリスの外交官として、その日常生活まで紹介し、解説した。

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中御門の紅葉inuyama027

登城道の坂の紅葉inuyama013

犬山城の模型inuyama042

伊木山方面inuyama044

各務原方面inuyama046

犬山橋方面inuyama050

犬山橋方面k13

太い梁と急な階段058

四季桜・紅葉・犬山城062

入り口035

犬山城k30

天守閣から見た庭k16

本宮山(左)・尾張富士(中)k08

太い梁と急な階段058

観光客k28

犬山城k27

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屋根付きの古木kt26        Top

犬山城(Wikipediaから引用)                Top
愛知県犬山市にあった城。現在は江戸時代前後に建造された天守が現存する。また、現存天守は国宝に指定
された4城のうちの一つである。

《概要》
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある
城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで
荻生徂徠が命名したと伝えられる。
前身となる砦を織田信長の叔父である信康が改修して築いたものを石川光吉が改修し現在のような形となった。
この際の建築用材は金山城の建物の一切を解体移築したという「金山越」の伝承がある。江戸時代には尾張藩
の付家老が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた
年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年
(元和3年)ごろである。近年まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在は財団法人
に譲渡されている。
《歴史・沿革》
 「戦国・安土桃山時代」
1469年(文明元年) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。
1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った。
    現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。
1544年(天文13年) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる
1564年(永禄7年) 織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。
    以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。
    本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
1584年(天正12年) 突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われた。
    これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び織田信雄の城となるが、彼の
    失脚後は三好吉房などが城主を務める。
    豊臣時代には石川貞清が城主となった。かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという
    伝承があったが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見され
    なかったため、移築説は現在は否定されている。
 「江戸時代」
    石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。
1601年(慶長6年) 小笠原吉次が城主となる。
1607年(慶長12年) 平岩親吉が城主となる。
1617年(元和3年) 親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、
    天守に唐破風出窓が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。
 「近現代」
    明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門などほとんどが取り壊された。
1891年(明治24年)の濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れたため、
1895年(明治28年)に城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。
1959年の伊勢湾台風で被害を受けたため、1961年から1965年まで解体修理を行った。
2004年(平成16年)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月に財団法人犬山城白帝文庫に
    移管されている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(43番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本
    100名城スタンプラリーが開始された。
 「天守」
    犬山城の天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が
    付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。
    地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。天守台石垣は野面積という
    積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。

1階:納戸の間、東西9間・南北8間 床面積は282.752平方メートル。
2階:武具の間、東西9間・南北8間 床面積は246.006平方メートル。
3階:破風の間、東西3間・南北4間 床面積は81.936平方メートル。
4階:高欄の間、東西3間・南北4間 床面積は49.835平方メートル。

昭和36年から同40年に行われた犬山城天守の解体修理と古文献などよって、この天守は下の2重2階の主屋が
1537年(天文6年) または、1601年(慶長6年)に建てられ、1620年(元和6年)頃に3、4階を増築。その後
唐破風の付加などが行われて現在の姿になったと考えられている。             Top


アーネスト・サトウ                       Top

アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリス
の外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。
日本名は佐藤 愛之助。

「生涯」
 日本着任まで
1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時
の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母(旧姓、メイソン)マーガレットの三男としてロン
ドンで生まれた。サトー家は非国教徒でルーテル派(プロテスタント)の宗教心あつい家柄であった。
ミル・ヒル・スクールからユニヴァーシティ・カレッジに進学、1861年イギリス外務省(領事部門)に通訳生
として入省、駐日公使オールコックの意見により清国北京で漢字学習に従事する。

 「日本(1862-1883)」
 
「敬和」と書かれたサトウ直筆の揮毫1862年9月8日(文久2年8月15日)、英国駐日公使館の通訳生として横浜に
着任した。当初代理公使のジョン・ニールは、サトウに事務仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができ
なかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された。このため、アメリカ人宣教師サミュエル・
ロビンス・ブラウン、医師高岡要、徳島藩士沼田寅三郎から日本語を学んだ。また、公使館の医師であった
ウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。
サトウが来日した直後の9月14日(8月21日)、生麦事件が勃発した。生麦事件およびその前に発生した第二次
東禅寺事件の賠償問題のため、ニールは幕府との交渉にあたったが、サトウもこれに加わった。但し、当時の
サトウの日本語力では交渉の通訳はできず、幕府および英国公使館がそれぞれのオランダ語通訳を介しての交渉
であった。

1863年、生麦事件・第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、
オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かった。
サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。

1864年、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任した駐日公使ラザフォード・オールコック
からサトウの昇進に尽力することを約されたので、引き続き日本に留まり日本学者となることを決意した。
オールコックはサトウを事務仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることと
なった。また、ウィリスと同居し親交を深めた。日本国内の攘夷的傾向(前年の長州藩による外国船砲撃や幕府
による横浜鎖港の要求など)を打破しようとした駐日公使ラザフォード・オールコックの命により、当時
ヨーロッパ留学から急遽帰国してきた伊藤博文(伊藤俊輔)・井上馨(志道聞多)を介した長州藩との外交交渉
の通訳にあたったが失敗した。四国艦隊下関砲撃事件では四国艦隊総司令官キューパー提督付きの通訳となり、
英・仏・蘭の陸戦隊・海兵隊による前田村砲台の破壊に同行し、長州藩との講和交渉では高杉晋作
(宍戸刑馬と名乗る)を相手に通訳をつとめた(伊藤博文・井上馨も通訳として臨席)。

1865年、通訳官に昇進。この頃から伊藤博文・井上馨と頻繁に文通するようになった。
新駐日公使ハリー・パークス着任後、箱館視察に同行。英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行し、神戸・大坂
に上、薩摩藩船胡蝶丸乗組員(西郷隆盛も来船したが、偽名を使っていた)と交わった。この頃から、日本語に
堪能な英国人として、サトウの名前が広く知られるようになった。

1866年、週刊英字新聞「ジャパン・タイムズ」に匿名で論文を掲載(後に『英国策論』という表題で出版され、
大きな話題を呼ぶ)。横浜の大火の後、公使館が高輪御殿山に移ると、近くの門良院で来日したばかりの2等
書記官アルジャーノン・ミットフォードと同居した。情報収集のために横浜を出港し長崎を訪問。

1867年鹿児島・宇和島[11]・兵庫を訪問、大坂から来た西郷隆盛と会い、薩摩藩の考えを聞いた。将軍となった
慶喜が大坂での外国公使謁見を申し出たため、その件および兵庫開港問題などについて情報収集するために兵庫
・大坂を訪問し、小松帯刀と会った。江戸に戻り、熱海・箱根・小田原を旅行。英国公使一行は徳川慶喜と謁見、
サトウはその通訳を努めた。大坂からの帰路は、チャールズ・ワーグマンと共に陸路(東海道)を通った。
公使ハリー・パークスに随行して軍艦スナップ号(後にバジリスク号)で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡
・七尾を視察した。その後サトウは公使ハリー・パークスと別れ、ミットフォードと共に陸路(北陸道)を通って
大坂まで旅した。大坂到着直後に長崎でおきたイギリス軍艦イカルス号水夫殺害事件を知った。大坂城で徳川慶喜
に謁見した後に西郷隆盛の来訪]をうけた。ミットフォードとともに蜂須賀斉裕の招きで阿波を訪問することと
なっていたため、一行は阿波を訪問、その後土佐、長崎へと向かった。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、
長崎では坂本龍馬と会っている。

1868年1月1日(慶応3年12月7日)に予定された兵庫開港の準備のため(これに伴う人事で12月31日に日本語
書記官に昇進)、サトウはミットフォードと共に大坂へ向かい12月3日(慶応3年11月8日)に上陸、パークスも
24日(11月29日)に到着した。兵庫開港は無事に実行されたが、日本の政治は急速に動いていた。
1月3日(12月9日)には王政復古の大号令が出され、1月6日(12月12日)には慶喜は京都を離れ大坂城に入った。
1月28日(慶応4年1月3日)には鳥羽・伏見の戦いが勃発して幕府軍は敗北、1月31日(1月6日)には慶喜は大坂城
を脱出した。これに先立つ30日に幕府は各国外交団に保護は不可能と通達したため、外交団は兵庫へと移動した。

実際に2月4日(1月11日)、備前藩の兵士が外交団に射撃を加えるという備前事件が発生した。明治政府初の外交
問題となったが、サトウはパークスに対し断固たる処置を求めるよう提言した。その後も各国外交団は江戸に戻ら
ず兵庫に留まっていたが、2月8日、東久世通禧が兵庫を訪れ、外交団と会見した。このとき2月3日
(慶応4年1月10日)付けの明治天皇から外交団に宛てた文書をサトウが翻訳している。内容は「慶喜の政権返上を
認め、今後は天皇の称号が、条約に用いられた大君の称号にとってかわる」というものであった。
東久世は11日まで外交団と様々な交渉を行っている。サトウは日本側に請われ、2月17日(1月24日)から大坂・
京都を訪問し、薩摩・長州・土佐の要人と会談した。当初、明治政府は明治天皇を大坂に行幸させ、そこで各国
外交団が天皇に謁見するという案をもっていたが、結局外交団が京都に赴いて正式な謁見を行うこととなった。

サトウも含めた英国外交団は3月21日(2月28日)に京都に着き、22日(2月29日)には三条実美や岩倉具視を訪問
した。3月23日(2月30日)、天皇への謁見のために御所に向かったが、ここで2人の攘夷派に襲撃された。1人は
同行していた中井弘蔵と後藤象二郎が斬殺し、1人は捕らえられた。英国人公使館員は無事であったが、サトウの
馬は軽い傷を負っていた。この日の謁見は中止されたが、3月26日(3月3日)に実現した。ただし、このときは
サトウは謁見していない。

3月31日(3月8日)、英国外交団は横浜に戻ったが、サトウは江戸で情報収集にあたった。勝海舟が主たる情報源
であった。4月5日、6日(3月13日、14日)の両日、西郷隆盛と勝海舟が会談し、江戸無血開城が決まったが、
これにはパークスの影響も大きかったと言われている。5月22日(閏4月1日)に大坂でパークス信任状奉呈式が
行われ、このときサトウは天皇に初めて謁見した。翌1869年1月5日(明治元年11月23日)にも、東京で謁見して
いる。

1869年2月24日、賜暇帰国、1870年に日本に戻った。1876年、日本人教師石橋政方と協力して『英和口語辞典』
を刊行。1883年まで日本に滞在した。

 「シャム、ウルグアイ、モロッコ(1884-1895)」
サトウは1884年から1887年までシャム駐在総領事代理、1889年-1893年ウルグアイ駐在領事、1893年-1895年、
モロッコ駐在領事を歴任した。

 「駐日特命全権公使(1895-1900)」
1895年7月28日、サトウは駐日特命全権公使として日本に戻った[22]。東京には5年間勤務したが、途中の
1897年にはヴィクトリア女王の即位60周年式典のために一時帰国している。日清戦争に勝利した日本は、
1895年4月17日に下関条約を結んだが、4月23日には三国干渉により遼東半島を清へ変換した。サトウはその後
 の帝国陸軍・海軍の成長を目の当たりにすることになる。サトウはまた、日本での治外法権が1899年に撤廃
 されるのにも立ち会った。治外法権の撤廃は1894年7月16日に調印された日英通商航海条約に含まれていた。

なお、サトウの後任として日本に着任したクロード・マクドナルドが、在任中の1905年に公使から大使に昇進
し、初代の駐日英国大使となった。

 「駐清公使(1900-06)」
1900年-1906年、駐清公使として北京に滞在、義和団の乱の後始末を付け、日露戦争を見届けた。

 「その後」
1906年、枢密院顧問官。1907年、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使。引退後はイングランド南西部
デヴォン州に隠居し、著述に従事。キリシタン版研究の先駆けとなって、研究書を刊行するなどし、のちの
南蛮ブームに影響を与えた。英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたものである。

「その他」
 サトウという姓 
「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本
の姓とは関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名
乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやすいものだったため、日本人との交流に大きなメリットになった
と言っていたらしい。

「功績」
『一外交官の見た明治維新』の著者としてアーネスト・サトウは現在日本で有名な人物ではあるが、それに
とどまらず明治時代前期の外国人キー・パーソンと言っても過言ではない。司馬遼太郎とドナルド・キーンの
対談『日本人と日本文化』(1984年4月、中公文庫)P174 によれば、サトウは、1866年(慶応2年)、週刊
『ジャパン・タイムス』(横浜で発行)に一文を書いた。日本の将来についてのヴィジョンを述べたもので、
これを、誰かが日本語に訳して、それを西郷隆盛らが読んで、「『英国策論』によると」と引いて日本の未来
を語ったのだという。明治維新の原型になるような一文なのだという。日本滞在は1862年から1883年
(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。

「家族」
 
武田兼(1870年)私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期の日本滞在時に武田兼を内妻とし3人の子
をもうけた。兼(カネ)とは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田
久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げる。また、最晩年は孤独に耐えかね「家族」の居る日本に
移住しようとしたが、病に倒れ果たせなかった。
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