一宮友歩会・第23回ウオーク例会 
 河川探訪五条川編Part3参加  (平成21年12月5日(土)天気:曇り後雨)
Part1)Part2)はこちらを参照 コース解説はこちら)

見所説明は、こちらの友歩会を参照してください。)


集合、名鉄犬山遊園駅 出発は 9:09 106

木曽川遊歩道 正面は伊木山 9:16 114

犬山城9:21 121

郷瀬川(木曽川に流れる)沿いに歩く126 9:24

郷瀬川の鴨たち 129 9:43

郷瀬川(右)と新郷瀬川の分岐点133 9:48

郷瀬川改良記念碑の説明136 9:49 136

新郷瀬川沿いに南下(正面尾張富士)140 10:12

新郷瀬川 142 10:15 (洪水対策として五条川の
水を分流させて木曽川に注ぐ郷瀬川に繋いだ)

天道宮神社(休憩)145 10:56 奥入鹿村にあった
が入鹿池築造に際し、1633年に現在地に移転

天道宮神社楼門(県指定文化財)153 11:08

この尾張富士を一周する161

大宮浅間神社で昼食163 11:54

毎年8月第一日曜日 石上げ祭165 11:56

明治村193 13:01

煙雨の入鹿池 194 13:15

入鹿池ではワカサギ釣が行われていた195 13:15

刀塚 198 13:19

入鹿池、記念碑の説明 205 13:24

五条川の取水口206 14:06

五条川改修記念碑208 14:08

五条川に沿って歩く209 14:08

野呂塚と八幡林古戦場212 14:31

小弓庄(前回のゴール)213 14:40

興善寺を見学215 14:53

興善寺内の四季桜217 14:54

入鹿池決壊時の流石222 14:53

桜と椿のやどり木(興善寺)231 14:59

コース:7:15自宅発(おにぎり等持参)−名鉄江吉良駅7:35−犬山遊園駅8:45着−出発9:10
 −木曽川−郷瀬川−郷瀬川改良記念碑−新郷瀬川−前原公園−天道宮神明社−木曽街道−
 −富士橋(S)−大宮浅間神社(昼食)−入鹿池−五条川−興善寺見学−
 (ゴール、名鉄小牧線羽黒駅)−犬山遊園駅−岐阜駅−笠松駅−江吉良駅−帰宅
(今日の歩数:36558歩)(例会参加者:48名)
初冬の曇り・雨の中、木曽川、郷瀬川、新郷瀬川、五条川などの歴史的な河川を歩いた。
 桜並木の古木を眺めながら、また初冬の紅葉や煙雨のなか、入鹿池を眺めながらのウオーキング
 は日常とはかけ離れた環境であり、雨天の中、かえって心地よく歩くことができた。
 五条川(総延長約43km。延々と桜並木が続いているのは壮観である。)

(郷瀬川・新郷瀬川の変遷)
明治元年5月、長雨により五条川堰堤が決壊し、五条川沿岸に大被害を及ぼした。
この対策として堰堤右岸の岩盤を掘削して余水吐きが造られ、平行して五条川上流を始め幾つかの
支流を付け替えて洪水を北の木曽川へ導く計画が立てられた。臨時郷瀬川改良水利土功会が組織
され、犬山城の麓から木曽川に注ぐ流路への付け替えによって明治19年(1886)現在の郷瀬川が
完成した。引き続いて上流部に溜池が設けられた。
また、五条川上流部から郷瀬川を経由する木曽川への放水路建設が、紆余曲折の末、昭和8年
(1933)に開削工事が着手され、昭和19年(1944)に完成し、これは新郷瀬川と命名された。
(ウオーキング資料:郷瀬川・新郷瀬川の変遷より引用)
見所説明は、友歩会(第23回例会)を参照してください。)
◎入鹿池
 入鹿池は寛永5年(1628)、鈴木作右衛門,江崎善左衛門ら入鹿六人衆と呼ばれる人たちに
より、小牧・春日井方面の灌漑を目的に築造が計画された。付家老である犬山成瀬家を経由し
て尾張藩に入鹿池の開発届を出し、折から新田開発に力を注いでいた尾張藩主の徳川義直公は
すぐに許可を与えた。当地には春日井郡入鹿村があったが、住民を移住させ、寛永9年
(1632)から着工し、翌寛永10年(1633)に完成させた。
堤防は河内国甚九郎の技術により完成したので「河内屋堤」(かわちやづつみ)と呼ばれた。
満水面積152ha、貯水量1518万m3で、農業用ため池としては 香川県の満濃池と全国で
一二を争う規模。
◎羽黒の戦い
 天正12年(1584)、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた小牧・長久手
の戦いの前半戦。羽柴軍の森長可(森蘭丸の兄)が3月16日、羽黒(犬山市)に着陣する。
この動きを知った徳川軍の酒井忠次、榊原康政ら5,000人の兵は同日夜半、羽黒へ向けて密か
に出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を一気に奇襲。森勢は奮戦したものの酒井勢の
猛攻に支えきれず潰走した。
◎興禅寺
 鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時によって承安4年(1174)真言宗・光善
寺として創建。文明11年(1479)年に臨済宗妙心寺派興禅寺と改め、現在に至る。
天正12年(1584)小牧長久手の戦いですべての伽藍を焼失したが慶長7年(1702)、18代
犬山城主・小笠原和泉守吉次公によって、現在地に寺地を与えられ移転、再興された。現在の
庫裡は文政13年(1830)に再建されたもので、木造切妻造桟瓦葺の国登録有形文化財。
境内には慶応4年(1868)の「入鹿切れ」の時に流れてきた重さ15トンの石が祭られている


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