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一宮友歩会・第25回ウオーク例会  (拡大版) (詳細版)
 史跡巡り・西尾張編Part7参加(下見2.20・例会4.10)
下見:(平成22年2月20日(土)天気:晴れ)例会:(平成22年4月10日(土)天気:晴れ)
(下見の参加者:8名、歩数:39,789歩)(例会の参加者:65名、歩数:33,915歩)
午前7時30分自宅発>一宮駅8:22>須ヶ口駅乗り換え8:34>甚目寺駅8:40着>9:10出発
>甚目寺観音>円周寺>プロムナード>小町塚>(美和町)菊泉院>二ツ寺親水公園(昼食)>文化の森>
>歴史民俗資料館>八剱社>七宝焼きアートビレッジ>七宝焼起源碑>名鉄七宝駅>須ヶ口駅乗り換え>
一宮駅>祖父江ふれあいの郷入浴(下見)>帰宅  
(上記の時間は一本後の時間で、20日・例会当日は少し早く着きました。下記、写真の時間参照)

(コース案内) 見所説明) 友歩会HP参照 
あま市(平成22年3月22日甚目寺町・美和町・七宝町合併誕生・H22.3.1現在人口87,998人33,585世帯)

甚目寺観音 お松の生涯 小笠原登博士


甚目寺駅 8:31 001

集合場所の甚目寺観音 8:36 005(拡大図)

六角堂8:37 007

三重塔(国指定文化財1627再建)009 8:37(拡大

漆部(ヌリベ)神社(延喜式内)027 8:48

太子山円周寺(小笠原登生誕地)038 9:08

プロムナードの陶板(4.10)

元飛行場開拓記念碑(4.10)美和庁舎北西角

古道に設置されている辻地蔵@(4.10)

古道に設置されている辻地蔵A(4.10)

薬王山法性寺 061 9:56
小野小町の持念仏「如意観音」が安置

晴明塚
063 10:01

小町塚 
064 10:05

福島正則生誕地の碑(拡大説明
067 10:31

瑞祥山菊泉院 072 10:33
正則公菩提寺

菊泉院境内(拡大説明
075 10:35

福島正則公肖像画(4.10)(87×35)
(享保2年1717)赤林四郎左衛門信龍奉納

正則公仰書写(4.10)(28.2×45.1(元和5年1619)
減封蟄居となった正則が重臣6名に宛てた書状

中央:木造毘沙門天(31.5cm)正則公の御持仏
その右:正則公御位牌(4.10)中貫十文字の家紋

福島正則公供養塔と記念碑(拡大説明)
(4.10)平成15年7月建立

二ツ寺親水公園(大江川沿)(昼食)078 10:45

文化の森(美和町文化会館)080 11:03

美和町歴史民俗資料館 081 11:29

八剱神社085 12:49(拡大説明

あま市役所(木田戌亥18-1)(4.10)観光の甚目寺
歴史の美和、産業の七宝が1つになった

五八悪水治水記念碑の説明(4.10)天保8年上街道
北8村と南5村の排水路が建設された

七宝焼ふれあい伝承館(交流工房)100 13:47

伝承館陶壁パネル 104 13:57

七宝焼林庄五郎翁顕彰碑(左)
(右)七宝焼起源碑11014:17

前田利家正室お松生誕地 瑞円寺
114 14:43

お松の方の里の犬飼家115 14:52

芳春院(ほうしゅんいん)
天文16年7月9日(1547年7月25日)/元和3年7月16日
(1617年8月17日)は加賀国(石川県)の戦国大名、
前田利家の正室。名はまつ。
篠原一計の子。法名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。
母が利家の母の姉である為、利家とは従兄妹関係に
あたる。
女性でありながら学問や武芸に通じた女性であった。
お松の生涯 (Wikipedia参照)
天文16年(1547年)尾張国海東郡(現在の愛知県海部郡
七宝町(2010年3月22日よりあま市))に篠原家の娘と
して生まれる。
天文19年(1550年)に父の篠原一計が没し、母が尾張守護
斯波氏の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは利家の父前田
利昌に養育されることになる。永禄元年(1558年)、数え
12歳で従兄弟である利家に嫁ぐと2男9女を産む。
なお、女性1人が産む子供の数が多かったとされる戦国時代
にあっても11人の実子がいる女性は稀有であり、記録が残
る限りでは最も数が多い。
天正11年(1583年)賤ケ岳の合戦で柴田勝家方に与した利家
が敗走した際、越前府中で秀吉に会って和議を講じて利家
の危機を救った。
天正12年(1584年)佐々成政に末森城を強襲された際には
蓄財に努めていた利家に対し「金銀を召し連れて槍を突か
せたら」と皮肉って鼓舞した。
慶長4年(1599年)に利家が病により没すると出家し、
芳春院と号する。
慶長5年(1600年)、前田家に徳川家康から謀反の嫌疑が
かけられた際には、交戦を主張する利長を宥め、それを
解消させるため自ら人質となって江戸に下り、14年間を
そこで過ごした。この間、関ヶ原の合戦で西軍についた
次男・前田利政の赦免や、養育していた利孝の大名取り立
てを幕府に直訴するなど前田家のために奔走する。
ところが、利政の赦免の約束は土壇場で反故にされ、
ショックから重体となり、幕府の命により伊勢・京で保養。
しかし、金沢へは立ち寄りすら認められなかった。
 なお、後に江戸幕藩体制において諸大名妻子の江戸居住制
が確立するが、芳春院はその第一号となる。
慶長19年(1614年)に利長が死去し、ようやく金沢へ帰国。
元和3年(1617年)に金沢城内で死去、享年71。

史跡巡りシリーズ・西尾張編part7】15km 例会案内から (Top

第25回ウォーク例会コース案内 

1.開催日時   平成22年4月10日(土) 9時〜(15時)
2.集合場所   名鉄本線 甚目寺駅
3.コース等   甚目寺駅→甚目寺観音→円周寺→プロムナード→小町塚→菊泉院→文化の森
         →歴史民俗資料館→八剱社→七宝焼アートビレッジ→七宝焼起源碑→七宝駅
4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)
5.その他    *雨天でも開催します。
   *歩ける服装で、弁当、飲み物、雨具、敷物、筆記具等を持参してください。
   *例会中の事故(けが)については、傷害保険の範囲内で対応致しますが、安全健康管理は
    自己責任でお願いします。
主な見所の説明(友歩会HP参照)           (Top

小笠原登博士 (ウイキペディア参照)
甚目寺町(wikipedia)(旧ホームページ)・七宝町(wikipedia)(旧ホームページ
 (美和町旧ホームページ)(wikipedia)・・・平成22年3月22日:3町合併(あま市誕生)

小笠原登博士 甚目寺小近くに円周寺という寺院があります。ここで、小笠原 登博士は、1888年(明治21年)7月10日に 小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生まれました。長男は、秀実(戸籍では二男)。 祖父の小笠原啓実は、円周寺の僧侶であるとともに漢方医術を行い、らい病、淋病、梅毒、瘰癧、黒内障 の治療を得意としていたといわれています。  大正4年京都帝大医学科を卒業して薬物学を研究、大正14年皮膚科泌尿器科に転じ、大正15年よりライ病 を担当しました。  昭和13年、ライの診療及び研究施設として新設の皮膚科特別研究室主任を拝命、昭和16年同大学助教授を 任じられ、昭和23年まで在職しました。 その間、ライ病発病は感染よりも体質を重視すべきこと、ライは不治の病ではないこと等の考えから、当時 の強制隔離、断種に反対しましたが、邪説として学会から葬り去られてしまいました。  昭和23年より豊橋病院、昭和32年奄美和光園、昭和41年退官、昭和45年12月12日円周寺にて81歳の生涯を 閉じました。戦前からハンセン病患者への差別と偏見に反対し、 献身的な外来治療をしていた小笠原博士の業績は、現在にいたってやっと評価されています。  (Top
◎(甚目寺町)甚目寺観音 (甚目寺観音の由来) 津島、沖ノ島、遠島などこの地方の地名からもわかるように、その昔、伊勢湾はこの辺りまで海で入り江が せまってきていました。 甚目という漁師さんがある日漁をしていいたら、驚いたことに、網に観音様がかかり、これは、もったいない ことだとお社を建て、おまつりしてさしあげたのが、甚目寺観音の由来だそうです。 事実、中央公論社の「日本の絵巻第20巻」一遍上人絵伝によれば、一遍は、弘安六年(1283年)尾張のくに、 甚目寺に来た時、萱津の宿で夜枕に毘沙門天がお立ちになったといって、この寺に詣で、時の天皇、天智天皇 の病気全快の願をかけ、観音にて七日間の断食修行をしたら、天皇の病気が全快なされたと書かれています。 由来についても、「そもそも、この寺は、推古天皇のころ、漁師の龍麻呂なるものが、網で海中より得たる 紫磨黄金像を感得して、まつったのが始まりなり。」と、伝え記しています。 天皇の病気全快の事が、各地に広がり、信仰する人々がますます増えそのころから鳳凰山甚目寺と言われる ようになり、鎌倉時代には、一山五百坊といわれ、3,000人もの僧がいたそうです。  (Top
◎小町塚の謎                         (Top 小町塚のことは、「尾張志」「張州府志」などには諸説記されているが、この小町が本物の小野小町だった のか?はたまた、○○小町と称されたこの地の美人だったのか?・・・謎である。 しかし、この地より出てきた「如意観音」様は、「小町の持念仏」として、法性寺に安置されている。
◎(美和町)菊泉院 郷土の英雄福島正則公との関係も深く、正則公の位牌や護持仏(木造毘沙門天立像)が奉納されています。 その他、正則公の甲冑姿の肖像画や広島城改易に重臣らの身のふり方を詳細に指示した書簡「正則公仰書之写」 なども納められています。当寺北西隅に正則公の供養塔と記念碑がある。 美和町歴史民俗資料館 (福島正則wikipedia)            (Top
◎(七宝町)七宝焼アートビレッジ尾張七宝の由来 七宝とは、仏典にある七つの宝物「金・銀・瑠璃・しゃこ・瑪瑙・真珠・まいえ」のことで七宝焼の美しさが 七種の貴品に似て絢爛で高貴である所からこの名がつけられました。 また、この地の人々が七宝焼に愛着を持っていたところから七宝村(七宝町)と名づけられました。
◎(七宝町)七宝焼起源碑(七宝町郷土資料館)           (Top 遠島八幡神社の境内の片隅、東側の道路に面した場所に、二つの石碑が建つ。 右の石碑には「七宝焼起源碑」、 (林庄五郎派と梶常吉の娘婿の佐藤半三郎派を仲直りさせるために建てたとされる。両派とその他七宝焼に  たずさわっている人々が一致団結して組合を一本化するために明治20年に建てられました。) 左の石碑には「林庄五郎翁顕彰碑」と彫られている。 (七宝焼の秘法を会得し当地方に発達させた先覚者として、その功績をたたえ組合が中心となり昭和37年に  建てられました。)
美和町歴史民俗資料館佐屋街道ウオーク参照(八剱社、七宝焼起源碑などの説明あり)あま市役所

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