一宮友歩会・第43回ウオーク例会(下・下見・例会参加)(
詳細版)(拡大版
 史跡巡り岐阜編Part6 (中山道・加納宿他)
  (下下見:平成24年10月16日(火)天気:晴れ、34,813歩。下見H24.2.16(土)晴れ)
(例会:平成24年4月13日(土)天気:晴れ 参加者41名) (歩数:32,697)

コース:7:30自宅発→名鉄江吉良→笠松・新岐阜・JR岐阜駅8:30頃着>
準備体操他9:10発→清水川プロムナード→光国寺→水薬師寺→革手城趾→正法寺趾→(思い出の森)→加納宿・中山道→
→(善徳寺)→鐘岩の碑→閻魔堂→細畑の一里塚→細畑西公園(昼食)→境川→手力雄神社→少林寺・新加納立場→
→各務原市民公園(ゴール・整理運動)→市民公園前駅→新岐阜→笠松→江吉良駅→帰宅 
コースマップ参照(PDF) 境川(旧木曽川)マップ 歌川広重作(加納)
(歩数:下下見歩数36,461歩下見H25/2/16歩数33,716歩 8名、例会H25/4/13歩数32,697歩参加者41名)

中山道加納宿(光国寺)中山道新加納立場(Web)PDF版各務原市
清水川コミュニティ水路岐阜まちなか歩きマップ17世紀後半頃の加納城

解説欄
加納宿加納城信長公の銅像解説JR岐阜駅前の旧跡解説明治22・24年木曽川(境川)マップ「川手城由来」
正法寺跡の説明加納城跡説明旧加納町役場(イスパニヤ式)加納八幡神社由来
ぶたれ坊茶所の説明専福寺


遊歩道からJR岐阜駅を見る003

駅前広場の信長像004

JR駅前階段に設置されたイルミネーションksy006

JR岐阜駅南口(集合)017

集合・受付kano004

JR岐阜駅南側のアート群018

清水川に架かる清水橋019

清水川020

清水川のサギkano007

清水川緑地021

清水川緑地を歩く022

光国寺025

光国寺普照殿027

亀姫の墓(光国寺)028

亀姫の墓(光国寺)029

水薬師寺032

水薬師寺kano010

水薬師如来像033

中山道の道標(右ぎふ道・左中山道)t031(加納宿)

水薬師堂標柱t034

赤門の説明(加納小学校)kano011

加納城大手門跡の石柱035

おもいでの森の銀杏t036 (下下見H24.10.16)
岐阜市立加納小学校の校庭には思い出の森があり、
その中央にイチョウの大木がそびえています。

校庭内にあり見学不可t037(下下見H24.10.16)
このイチョウは、かつてこの地に加納城があったころから
立っていたものといわれています

加納小学校内にある加納城三之丸石柱040

加納城石垣跡041

川手城跡042

正法寺跡の石柱046(14c中頃土岐頼康建立)

岐阜城展望048

加納城跡入り口049(下下見H24.10.16)

加納城石垣050

加納城跡発掘調査現場052

加納城跡説明kano014

加納城跡説明kano015

石垣跡053

城壁の上を歩く055

公園内古木の整備056

加納城跡の案内058

加納城跡の石ksy2006(H25.2.16下見)

旧加納町役場(イスパニア式)062

専福寺064

専福寺本堂(信長・秀吉等の古文書有り)065

加納宿・中山道と御鮨街道が重なる地点の側溝の蓋067

善徳寺(耐震工事中H25.2.16〜)069

善徳寺本堂070(H24.10.16)

中山道東番所跡の標柱(右)071

八幡神社のクスノキt073(岐阜市指定保存樹)

鏡岩の碑074

解説によれば、この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士
「鏡岩浜之介」にちなむもの。二代目鏡岩は父の職業を継いで
力士になったが、土俵の外での行状が悪かったことを改心して
寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅
ぼしをしたという。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったと
いわれている。

ここの少し北にある東西の通りは昔の中山道であり、加納宿と
して栄えていた。ここにあった妙寿寺は廃寺となり「ぶたれ坊」
の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されてい
る。

上神明神社077

下神明神社079

閻魔堂082(革手城の鬼門除けとして建立)

細畑の一里塚(道の両側にある)089

中山道の標識(手力雄神社迄1.7km)092

細畑西公園で休憩093(昼食予定地)

細畑西公園で昼食kano020

細畑西公園で全員集合kano022

境川(木曽川旧本流)の両天橋に架かる戦国の絵094

両天橋に架かる戦国の絵096

境川(美濃と尾張を分ける)に架かる切通の橋098

手力雄神社に到着099

手力雄神社本殿100

本殿の内部(右手は花火の模型)103

手力雄神社火祭りの案内104

手力雄神社火祭りの飾りと柱kano031

手力雄神社火祭りの飾りkano033

手力雄神社火祭りの飾りkano034

火祭りの櫓1kano029

火祭りの櫓2kano048

手力雄神社本殿kanot046

火祭りの櫓kanot044

力雄神社火祭りの沿道に並ぶ屋台kano041

新加納一里塚標柱116

善休寺本堂(本尊は阿弥陀如来像)kak042

少林寺内東陽英朝禅師塔所の稲荷堂099

少林寺は旗本坪内家の菩提寺14083

坪内家は5533石、内分寄合の格式14084

坪内家の御典医今尾家14091

中山道新加納立場の説明14096PDF版)解説

各務原市民公園ksy119

各務原市民公園で解散式ksy121 TOP

加納城概要 コースマップ参照(PDF)

加納城関連マップ (コースマップ参照(PDF)
赤線:中山道 青線:御鮨街道(岐阜街道)
加納城跡説明  TOP



加納城概要(マップ) TOP


加納城         TOP

 加納城はもともと美濃守護土岐氏によって築かれたのに始まるというが、その当時は現在の本丸部分程度の
簡素なものであったろうと思われる。
 現在見られるような加納城が築かれたのは、慶長6年(1601)のことである。関が原役の後、奥平信昌は
上州小幡3万石から、岐阜10万石に栄転した。その際、家康の命によって岐阜城は廃城とされた。
岐阜城のような峻険な山城は、平和な時代には目障りだと思ったのかもしれない。そこで本多忠勝らに命じ、
新たに築かせたのがこの加納城であったというわけである。したがって、江戸時代の岐阜の中心は、金華山
ではなく、加納城であった。岐阜は加納10万石の土地となったのである。
 奥平氏は3代で嗣子なく断絶。その後は、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と続いて明治維新にいたる。
最後の永井氏の頃は3万2千石の規模であり、次第に身上が小さくなってしまっていた。

加納城盛衰  徳川家康が「関ヶ原の戦」直後に織田信長自慢の岐阜城を廃し、岐阜城の木材から石垣まで持ってこさ せて、本格的な近代な平城を「徳川四天王、本田忠正」に作らせ、長女「亀姫の婿奥平昌正」を城主と した加納城は明治政府も目障りなのか、徹底的に壊し堀も埋めてしまい、石垣のみとしてしまいました。  今城跡では細々と発掘調査が行われています。 中山道・加納宿Web参照   TOP
革手城祉(加納宿詳細)参照   TOP 美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職、土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国 の3ヶ国の守護職となる。  手狭となった長森城(岐阜市切通六丁目 中山道中編、細畑一里塚に詳しく案内あり)に代わり、1353年 (文和2年)、川手城を築城する。 以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。  旧木曽川(現境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、 広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。  1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、 川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、 西の山口(大内氏)東の川手と言われた。  しかし1494年(明応2年)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失する。後に再建される が、1530年(享禄3年)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移した事により廃城となる。 城下町である川手(現岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等が その繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。  廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われ てしまった。「川手城由来」   TOP
旧加納町役場(イスパニヤ式)  TOP
加納八幡神社由来(拡大版へ)    TOP
ぶたれ坊茶所の説明   TOP
コースマップ参照(PDF)  TOP

清水川コミュニティ水路   TOP
清水川は、JR岐阜駅南から新荒田川に流れる川で、岐阜駅の南口から約500mを整備し、河川公園として利用されて
います。春になると、清水川コミュニティ水路に沿って約220本の桜が咲き誇り、街の喧騒を忘れさせてくれます。
(清水緑地)

この清水川は、岐阜市の繁華街・柳ヶ瀬地区から街の中を流れています。ここにはアユ・ギンフナ・オイカワ等 たくさんの魚が住んでいますが、それはこの川の水がとてもきれいで量も多いからです。 これら自然の魚たちを身近に観賞できる施設として、河川を2層構造にし上段にせせらぎ広場を創出し、清水川に 生息する魚が昇れるように魚道を設置しました。延長100mで鮎ゾーンと自然魚ゾーンに分けて整備しました。 (web参照)
加納宿(wikipedia参照)             TOP
加納宿概要:案内板によると「 江戸時代の加納の町は、加納城と武家屋敷・本陣・旅籠や問屋の宿場からなって
いた。加納宿は東西約2.3Kmに広がり、中山道の中でも大きな宿場であった。また、南に分かれる名古屋街道
は、鮎ずしを将軍家に運んだことにちなんで御鮨街道とよばれる。」とあります。加納宿は中山道の53番目の宿
場町で天保14年(1843)時点では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、家屋805軒、人口2728人でした。
本陣は松波家で文久元年(1861)には皇女和宮が宿泊で利用し「 遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 
立うかりけり」の歌を残しています。 

中山道加納宿(Wp) 加納宿(HP)参照 加納宿詳細

光国寺(こうこくじ)  TOP 亀姫ゆかりの光国寺・・・・・岐阜市加納西広江町 臨済宗妙心寺派の寺です。慶長19年(1614)に奥平信昌夫人亀姫が創建しました。亀姫と2代城主奥平忠政、3代城主 奥平忠隆が祀られています。場所は少し分かりづらいです。清水川に沿って立地しておりますが、名鉄線路の北側に なります。亀姫の墓は外から見学できます。お寺の所蔵する亀姫の肖像画は岐阜市の重要文化財に指定されています。
水薬師寺 清水川で黄金仏を拾い上げる  TOP 臨済宗妙心寺派,本尊薬師如来. 慶長17年6月21日の夏に伊三郎という若者が清水川にて遊泳中、足に触れた異物を拾い上げたら黄金の薬師像で、 これを光国寺に奉納しました. 藩主奥平忠政と亀姫はこれを慶び清水川に川中に二間四方の浮見堂を建て安置しました。 以来水薬師または乳薬師と呼ばれ,乳がよくでる仏として親しまれています. 7月20,21日には清水川の灯籠流しが盛大に行われています.
徳川家康の長女 亀姫とは   TOP 永禄3年(1560)駿府にて築山御前を母として家康(19歳)の長女として生まれました。 亀姫は17歳で三河国、新城城主、奥平九八郎信昌に嫁ぎました。夫の信昌は関が原合戦の功績により美濃国加納城 10万石城主となりました。亀姫は生涯信昌に一人の側室も置かせず、4男1女を生み、加納御前、加納の方と敬愛 されました。夫・信昌に先立たれた後は、残された幼い孫たちの後見役として奥平家を守っていきました。   TOP
正法寺跡の説明   TOP
専福寺  TOP 信長の石山本願寺攻めに参戦。真宗大谷派,親鸞上人ゆかりの寺院で,古くは旧河野門徒として浄土真宗の名刹 である。天正4(1576)年信長の石山本願寺攻めのとき,時の住職忍悟は門徒を引き連れて参戦,門徒37人ととも に討ち死にした。子,忍勝は寛永12(1635)年に加納新町に一宇を建立,住職として活躍.寺宝として信長, 秀吉,輝政等の文書(市指定重要文化財)を所蔵している。
専福寺文書(せんぷくじもんじょ) 専福寺には、戦国期を中心とした文書が多く残されています。その内、織田信長朱印状・豊臣秀吉朱印状とつたえ られる三通が岐阜市重要文化財に指定されています。 織田信長の朱印状は、元亀三年(1572年)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出された物とされています。 元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主「顕如」(けんにょ)は教書を各地の門末に下し、 末寺の蜂起を促がしましした。美濃においても多くの寺院がそれに呼応しています。 同三年、専福寺の僧「忍悟」(にんご)が、石山合戦で戦死し、顕如より追悼の御書を給わったと伝えられています。 本寺に伝えられる信長の朱印状は、その際、専福寺及びその門末が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になって います。 本状の信長発給については検討の余地があるものの、石山合戦当時の緊張状態を伝える内容となっています。 その他、豊臣秀吉・池田長政の発給とされる文書も伝えられますが、何れも本寺と、当時の政治権力との関係を考え る上で重要な文書です。
細畑の一里塚(Web) TOP 中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約三、九キロメートル)ごと に設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。 街道の両側に五間(約九、一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。 細畑の一里塚は慶長九年(一六〇四)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。 東方の鵜沼宿から三里一四町(約一三、三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三、三キロメートル) の位置二あり、中山道の風情を今に伝えている。
手力雄神社の火祭り(Web参照)手力雄神社(WP)(岐阜市) TOP 火祭りは、手力雄神社境内で行われる神事芸能で、火薬を使った勇壮な祭りで300年の歴史があります。 祭りの日は、各町内を爆竹と鐘を鳴り響かせながら男衆が神輿を担いでねり歩く。 やがて各町内の飾り神輿(花火神輿)が猛烈な爆竹音とともに見物客の間をぬって宮入りする。 境内正面には歌舞伎や昔話を題材とした大掛かりな山(舞台)がセットされている。 高さ20mの御神灯(巨大な行灯)に次々と点灯された後、滝花火に点火! 火の粉が降り注ぐ中、裸男が担ぐ神輿が乱舞。滝花火で神輿の花火に引火させると、祭りは最高潮に。 手筒花火や、仕掛け花火が一斉に火を噴く山焼き、火薬のにおいが立ち込める境内では見物客が圧倒される。 上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた 声明を出し、動揺は鎮まった。『吾妻鏡』や『承久記』には北条政子が鎌倉武士を前に、 「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。 秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが 良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した記述がある。   TOP
歌川広重作 木曾街道69次の内 加納 TOP

国立国会図書館蔵 デジタル化資料 古典籍資料(貴重書等) 錦絵
信長公の銅像解説ksyw010   2012.10.16 (JR岐阜駅北口)     TOP
旧跡解説(加納城跡・旧加納町役場・加納天満宮・加納宿)

JR岐阜駅前の旧跡解説ksyw014   2012.10.16       
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17世紀後半頃の加納城  TOP
中山道新加納立場(Web)        TOP


 TOP  全員集合(細畑西公園)
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【以下は新加納立場付近の解説です。(↓)】

龍慶山少林寺:臨済宗妙心寺派      TOP
新加納の西端に位置。室町時代の薄田氏の菩提寺。禅僧・東陽英朝開山創建。その後慶長6年(1601年)領主の
旗本坪内氏の菩提寺となり、歴代の墓がある。


遇光山善休寺:(真宗大谷派)        TOP
開基念願。格式のある三筋塀は京都本光院の祈願所として定められた。屋根の葵の紋は尾張徳川家の狩りの際、
宿泊所となった為許されたもの。


日吉神社:(祭神 大山昨神おおやまぐいのかみ)
大津の総本宮日吉神社の分祀社。蛙にまつわる言い伝えが有り、拝殿前に石造りの狛蛙が奉納されている。
中山道沿いにある定書には蛙の捕獲禁止の条が書かれている。


玉鳳山瑞眼寺:臨済宗妙心寺派
瑞眼寺は新加納駅の北にありもとは極楽寺という禅宗の古刹。享保13年(1727年)中山道を西上した晦堂玄驍ヘ
極楽寺の荒廃を目にして領主坪内氏に願い、一宇を再建。このとき極楽寺を瑞眼寺と改め現在に至っている。


坪内陣屋
旗本坪内氏の初代玄蕃利定は織田信長に仕え合戦に功をあげ、徳川家康にも仕えて慶長5年(1600)関ヶ原の
戦いで父子共に効をあげ、美濃国の羽栗・各務2郡で6530石を受領。利定以降11代定益まで続き、明治元年
采地を奉還した。その間、鉄砲頭、定火消、百人組頭、御書院番頭などを務めた。
坪内分家としては前渡、平島、三井がある。


梅村屋
新加納一里塚付近に有り、立場の中心的存在が梅村屋であった。煮売茶屋から始まり、後に坪内陣屋への訪問
客の接待所としても使われ、幕末に至ると小休本陣・旅籠などを兼ねた。
皇女和宮降嫁の際には一行はここで休息。薬舗も兼ね、「せんき妙薬本家」の看板が残り、かつての商いの様子
が窺われる。
(以上、各務原歴史研究会の資料による)      TOP

岐阜まちなか歩きマップ(拡大版へ)  TOP


境川(旧木曽川)    TOP

境川(さかいがわ)は、岐阜県各務原市北東部に源を発し、岐阜市、羽島郡岐南町、笠松町、羽島市を経て長良川に注ぐ一級河川。
途中の各務原市では境川放水路(新境川)が作られ、分流された水は木曽川(北派川)に注いでいる。
岐阜市高田付近で分流した新荒田川(荒田川中部放水路)を羽島郡笠松町付近で合流する。
歴史
戦国時代まで、現在の境川の下流部は木曽川の本流であった。境川の名は、現在の木曽川のように美濃国と尾張国の境となる川で
あったことから来ている。この旧木曽川は、三井山の南を通って(現在の三井川)現在の境川の流路に入り、枝分かれしながら
網目状に流れていた。 
1586年の大洪水で、木曽川は大きく流路を変えて南側に移動した。かつての流路には、それまでの支流からの水が流れ込むのみと
なり、現在の境川ができた。水が流れなくなった河道は水田などに転用された。 
木曽川が現流路に変わり両国の境界が移されて以降は右岸の厚見郡と左岸の羽栗郡(葉栗郡)の郡境となった。
このように、木曽川の枝分かれの跡を細々と流れる川となったために、浅くて幅が狭く、蛇行の多い河川となり、また水田に転用
された河道が残っているため、大雨が降ると氾濫しやすく、住民は洪水に悩まされる事となった。
このため、1930年に、現在の各務原市蘇原大島町付近で境川から分岐する境川放水路(新境川)が作られ、その水を木曽川に流す
ことで洪水が軽減されるようになった。   TOP
参考:境川は昔の木曽川だった

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