一宮友歩会・第30回ウオーク例会 
(下見・例会)・(拡大版)
 史跡巡り・西尾張編Part8 参加
(下見:平成22年12月18日(土)天気:晴れ 参加9名 例会2月5日参加68名 天気:晴れ)

午前7時10分自宅車発→清須市駐車→名鉄本線須ヶ口駅→萱津神社→(鎌倉街道)→実成寺→三社宮大杉
→大治スポーツセンター→明眼院→(佐屋街道)→万場宿→岩塚宿→近鉄烏森駅解散→名古屋駅→枇杷島駅
→祖父江ふれあいの郷→帰宅
(12.18下見の歩数:33,094歩)(2.5例会の歩数:34,134歩)

★コース(解説詳細)案内はこちらを参照してください。

★友歩会参照 ★萱津神社 ★ 鎌倉街道 ★清須市(HP) ★清須市観光協会 ★明眼院 ★佐屋街道
★実成寺 ★万場宿・岩塚宿 ★あま市(HP) ★大治町(HP) ★栗田直政 ★大治町イラストmap(PDF)
★三社宮神社 ★尾張 萱津古戦場


例会受付(須ヶ口駅前)

萱津古戦場跡の碑nisi006

萱津神社へ008(漬け物祖神の像)
(神社の前は鎌倉街道)

萱葺き屋根の漬物小屋
萱は昔萱が生い茂っていたので名づけられた

実成寺nisi018(解説)寺の前は鎌倉街道

釈迦涅槃石像(実成寺)

住職の説明を聞くことができた

耐震構造に改修された(実成寺本堂)

三社宮神社027(大杉)

一遍上人の御杖銀杏(三社宮)

上海出征記念の砲弾があった

大治町スポーツセンター(休憩)

大治町スポーツセンター:032(PDF)

明眼院と金剛力士像nisi045(尾張名所図絵)

鎌倉時代運慶作といわれる

鎌倉時代運慶作といわれる

明眼院の裏庭048(小堀遠州の造園)

秀吉が朝鮮から持ち帰った石灯籠nisi050

明眼院の裏庭にある三重塔053

馬島社(昼食)057

佐屋街道と馬島明眼院道との分岐点063

高札場跡(佐屋街道)065

自性院(休憩)  067

栗田直政記念碑069(江戸の国学者pdf)

十二所神社の鳥居前071(佐屋街道)

新川を渡る073

尾張(冨田)聖徳寺の山門を移築したもの
★光円寺参照(佐屋街道沿い)

万場宿渡しの常夜灯081(佐屋街道)
庄内川堤防の万場大橋南脇にある

万場大橋を渡る

七所社へ寄る084

七所社087(由緒)

日本武尊腰掛け岩090 (七所社内)

古塚091(七所社内)

岩塚宿場跡097(佐屋街道)

ゴールの烏森駅前104

近鉄烏森駅105(右手)

第30回ウオーク例会 史跡巡り・西尾張編Part8 参加
 14km 例会案内から (
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第30回ウォーク例会・開催要項 

1.開催日時   平成23年2月5日(土) 9時〜(15時)
2.集合場所   名鉄本線 須ヶ口駅
3.コース等   須ヶ口駅→萱津神社→(鎌倉街道)→実成寺→三社宮→明眼院
              →(佐屋街道)→万場宿→岩塚宿→近鉄烏森駅 
4.参加費    300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)
★友歩会参照                        Top


尾張 萱津古戦場(Kayazu historic battleground)(Web解説)         Top
【愛知県あま市上萱津字八剱】

【立地】平地
【歴史】清洲織田信友×那古野織田信長の跡目相続争いである。1551年信秀が亡くなると、1552年8月15日
清洲織田家の坂井大膳、河尻与一、織田三位らが謀議して、松葉城の織田伊賀守、深田城の織田右衛門尉を人質に両城
を占領した。この知らせに、16日信長は那古野城を出立し、稲葉地の川岸まで出陣した。守山の織田信光と合流し、
一手に海津口へ攻め寄せ、清洲織田家も海津村へ進出した。辰の刻、信長が攻めかかり、数時間火花を散らして戦った。
遂に清洲勢は敗れ、松葉、深田両城も信長の攻撃で奪回した。現在は“萱津古戦場跡”の石碑が立つ。

【所感】五条川に架かる県道126号線法界門橋信号を南へ曲がり、100m程進んだ三叉路を右へ萱津用水に沿って
下って行きます。初めての交差点を右へ曲がり、次の辻を越え、右手の“甚目寺町第6分団(上萱津)”と書かれた赤い
建物横に石碑が在ります。建物に隠れて道路から入った場所に在るので、分かりづらいかも。
★その他のWEB解説
萱津神社(Web参照)                               Top
萱津神社とは、甚目寺町にある漬け物で有名な神社です。
萱津神社の名前の由来は、
萱・・・海辺においしげっている「かや」
津・・・もともと港町
神社・・・神様と言う意味だよ!

つまり萱津神社は、海の近くにあったってことだね! 
香の物殿では、毎年8月21日に、香の物祭りといって、漬け物をまつるお祭りをします。
このお祭りには、何千人もの人が参加します。ぜひみんなも参加してみてわ・・・。                                      そして、参加した人たちは、漬け物を、漬ける事ができます。おもに、うり・なす・大根などをつけます。 その際に、たで(防虫剤に使われているもの)を、いっしょに漬けます。  
萱津神社の漬け物は、すごくからいです。
なぜからいのかは、来る人みんなが、「幸せになりますように・・」と、塩をたくさんいれたからです。  

 縁結びの神様になった理由は、ヤマトタケルのミコトが、いぶき山で、豪族と戦った。
その時に、ヤマトタケルノミコトが、妻のミヤズ姫のミコトに、遺言をのこした。ミヤズ姫は、もう会えないと
なげき悲しんだ。今後私たちのように会えない人がいないようにヤマトタケルノミコトが、さかきを植えた。
 
献榊祭(縁結び祭)という祭りが、毎年4月の第二日曜日に、行われます。他にもいろいろな祭りが、おこなわ
れるので、ぜひ参加してみてください。 
★wikipedia(参照)

鎌倉街道 Top 鎌倉街道(かまくらかいどう)は、鎌倉に至る道を指す名称である。 1.古道の名称 鎌倉時代の頃の鎌倉道などと呼ばれ、鎌倉幕府の所在地である鎌倉から放射状に各地とを継ぐ古い道のことである。 2.道路の通称 東京都道18号府中町田線などの通称名。 古道 古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。鎌倉幕府の御家人が、有事の際に 「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道でもある。 鎌倉政庁自らの記録である吾妻鏡に、鎌倉街道という言葉は見られない。あたかも鎌倉政庁により上道、中道、下道という名 の「鎌倉街道」を整備していたかのように思われがちだが、当時の記録にはそのような名前の道は見られず、また枝道なども 鎌倉街道と呼ばれ各地にその名が残っているものの、実際のところ「鎌倉街道」の由緒については不明である。 しかし、「鎌倉との往還道」という意味では、以下のような記述が散見される。 1.京や駿河・遠江と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総・常陸に向かう道として東海道 2.鎌倉から武蔵東部や下野に向かう中路 3.さらに中路を経て奥州に向かう奥大道 4.鎌倉から武蔵西部や上州に向かう下道 5.下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道 これらのうち、「東海道」と「北陸道」は道路の意味よりむしろ地方の名称、すなわち律令制五畿七道の一道の意味合いで用 いられているとも解される上、「中路」はもともと官道の規格を表す表現として用いられてきたものでもある。一般的な解釈 として、鎌倉から武蔵西部を経て上州に向かう道路が「上道」とされているが、吾妻鏡の中に「上道」の記述は見当たらず、 むしろ鎌倉から上州を経て北陸道へ至る道を「下道」としている。 以下、若干の解釈の違いはあるが、現在の一般的な鎌倉街道の道の定義にて記述としている。 武蔵大路 吾妻鏡には「武蔵大路」の記述があるが、経路についての説明が一切しておらず、不詳の古道である。 吾妻鏡の養和元年9月16日の条には、下野国足利庄の桐生六郎が幕府の命により追討の命が下された主人の藤原俊綱の首を取 って武蔵大路よりその首を持参したとある。この武蔵大路は鎌倉市中の道との説がある一方、上道あるいは中道であったと いう推察もあるが、確実な根拠は見つかっていない。 上道 一般的に、上道(かみつみち)と呼ばれている道筋は、吾妻鏡にて「下道」と記されている道筋と解されている。 吾妻鏡の文治5年7月17日の条には、奥州征伐の北陸道大将軍の比企能員および宇佐美実政等が、『鎌倉から下道を経て上野国 の住人を集め越後国から出羽国に出る』と記述されており、この道は相模国から武蔵国を経て上州に至り、さらに北で北陸道 に通じていたものと推察されている。 宴曲抄の地名 鎌倉時代に編まれた「宴曲抄」の中の歌謡「善光寺修行」には、鎌倉街道の地名が織りこまれている。 由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜) - 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) - 村岡(藤沢市宮前を中心とした付近) - 柄沢 (藤沢市柄沢付近) - 飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近) - 井出の沢(町田市本町田) - 小山田の里 (町田市小野路町) - 霞ノ関(多摩市関戸) - 恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川 (東村山市と所沢市との境付近) - 武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼(狭山市堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった) - 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿) - 大蔵(嵐山町大蔵) - 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨 (小川町の市野川岸の奈良梨) - 荒川(寄居町の荒川) - 見馴川(児玉町を流れる現在の小山川) - 見馴の渡 (見馴川の渡) - 児玉(児玉町児玉) - 雉が岡(児玉町八幡山) - 鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる) - 山名 (高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡 (高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻(安中市板鼻) - 松井田(松井田町) 中道 一般的に、中道(なかつみち)と呼ばれている道筋は、吾妻鏡で「中路」ないし「奥大道」と解されている。 吾妻鏡の文治5年7月17日の条には、奥州征伐で源頼朝が大手中路より御下向されたと記述されており、鎌倉を発向した頼朝軍 は下野国宇都宮(古多橋驛)、同那須(新渡戸驛)を経て白河関に至っていることから、中路とは武蔵国および下野国を経て いた古道と推定されている。 また同じく吾妻鏡には、奥州平定後の記述として奥大道の文字も見え、1256年7月2日(建長8年6月2日)の条に、奥大道に 夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等として以下の24名 を挙げている。 小山出羽前司  宇都宮下野前司  阿波前司  周防五郎兵衛尉  氏家余三跡  壱岐六郎左衛門尉 壱岐七郎左衛門尉  出羽四郎左衛門尉   陸奥留守兵衛尉  宮城右衛門尉  和賀三郎兵衛尉  和賀五郎左衛門尉 芦野地頭  福原小太郎  渋江太郎兵衛尉  伊古宇又次郎   平間江地頭  清久右衛門次郎  鳩井兵衛尉跡 那須肥前々司  宇都宮五郎兵衛尉  岩手左衛門太郎  岩手次郎  矢古宇右衛門次郎   これら地頭等の所領を現代の自治体名で鎌倉側から並べると、神奈川県川崎市中原区上平間、川崎市幸区下平間、東京都足立区 宮城、足立区伊興、埼玉県川口市本郷、鳩ヶ谷市、草加市谷塚、さいたま市岩槻区、久喜市、栃木県小山市、下野市薬師寺、 河内郡上三川町多功、下野市児山、 宇都宮市(田川西岸の市街部)、さくら市氏家、矢板市川崎、大田原市福原、大田原市 黒羽、那須郡那須町芦野[3]となり、奥大道はこれら地域を経て奥州に至っていたものと考えられている。 なお、先出の吾妻鏡の奥州征伐の記述によると、7月19日に鎌倉を発った頼朝軍は、中路を経て7月25日に宇都宮(古多橋驛) に到着、7月26日に宇都宮を発ち7月28日に那須(新渡戸驛)に到着、翌7月29日に白河関に至っており、各区間に要した概日数 は鎌倉-宇都宮間約160kmが6日間、宇都宮-那須間約55kmが2日間であったことから、当時の中路の旅程は1日約25-30kmであった と見られる。 下道 一般的に、下道(しもつみち)と解されている道筋は、鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに 北上して下総国府、常陸国に向かうとされている。ほか、房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称 する場合もある。 鎌倉街道の特徴 なるべく平坦な直線距離を取る。 見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。 尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。 現況 鎌倉街道「駒が橋」 横浜市港北区かつての鎌倉街道は、近世に廃道になったり、近代以降拡幅(付け替え)されたものが多い。また枝道もあり、 正確なルートについては諸説がある。なお、現在鎌倉街道と呼ばれるもののうち、かつての上道に相当する東京都道18号府中町 田線(後述)は全体的に旧経路に平行しているものの、中道に相当する神奈川県道21号横浜鎌倉線(後述)は、小袋谷付近まで は旧経路をほぼ踏襲しているが、それ以遠のルートは中道から大きく外れて横浜市中心部へ北上していると考えられている。 このほかに、市道として断続的に名前が残っている箇所もある。 (例:横浜市の「かまくらみち」や、東村山市・小平市内などの府中街道に平行するような形態の狭い幅の道路など。 その他関東各地に名称が残る) 大部分が近代の宅地開発や市街地化、道路環境整備などに伴い姿を大きく変えているが、未舗装のままや宿場の街並みが残り、 かつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残る。 国分寺市と府中市の市境で黒鐘公園付近にある伝鎌倉街道 町田市の町田宿・井出の沢付近から小野路宿付近にかけての旧経路。このうち七国山は「七国山自然歩道(鎌倉古道)」として 、「鎌倉井戸」と呼ばれる井戸跡共に保存されている。 上記の小野路宿付近から多摩市南野の一本杉公園にかけて、鎌倉裏街道跡およびその切り通しがあり、整備・保存されている。Top
実成寺(愛知県あま市にある日蓮宗の寺院で福島正則が寄進した山門がある。以下WEB記事から引用)   Top 実成寺の辺りは、かつてこの辺りが東西南北の4つの宿からなる萱津宿言われていた頃、中心となっていた南宿があった所です。 そのためかどうか分かりませんが、この辺りが海部郡の鎌倉街道のうちでは、もっとも鎌倉街道らしい道が続いています。 鎌倉街道は、180cmの道幅で作られていたそうで、実際に通行してみるとあまりにもの狭さにびっくりします。 実成寺の山門は、豊臣秀吉子飼の大名として有名な福島正則が寄進したと伝えられている四脚門本瓦葺です。 所在地 甚目寺町大字中萱津字南宿254番地 宗 派 日蓮宗京都本国寺末 本 尊 法華経題目宝塔 創立は、元応元年(1319年)第94代御伏見天皇の時(第14代執権北条��時当時)である。 中老僧、善学阿闍梨、日妙上人八十歳の時改宗した。 上人が開山である。 日妙上人は日蓮上人、弟子、中老18人のうちの上位に位し、仁治元年の生まれである。 年若くして、当時真言宗に属していた当寺に住していた。 現存する本堂の内部はその当時の護摩修法の道場で、十如堂とも称されていた。 鎌倉円覚寺所蔵の「弘安6年(1283年)9月26日付寺領(富田庄)寄進の古地図に、萱津宿の中央あたりに、実成寺と明記 されているのをもってしてもすでに当時実在していたことが知れる。 日蓮上人入寂(1282年)の時には日妙上人は44歳であった。 それから考慮すること36年、意を決して改宗されたのであった。 心機一転された上人は、上萱津に妙勝寺を創建して、これを布教の第一線基地として定め布教活動に入られたのであった。 東は春日井、西は七宝の付近、北は稲沢方面まで及び、これが当国に於ける当宗門の濫觴であった。 上人が100歳になった時、高弟日長上人に二世を任せ、再び当寺に隠退された。 貞和元年(1345年)4月23日、年齢106歳にして当時にて入滅された。 日長上人33歳にして、妙勝寺より、当寺二世を継承せされ、在位中、六ツ師、長栄、普門の両寺を創建し、応永6年 (1399年)3月10日86歳で入滅された。 宝塔院日肝上人28歳にて第三世を継承、在位40年永享10年(1438年)7月16日68歳にて入滅、その間、泉竜寺、 本要寺の二ヵ寺を開山した。この上人の一周忌に建立された。宝篋印塔は墓地中最古の碑として現存する。 第七世日佳の時に、本堂御拝上に取り付けてある鰐口が寄進された。名に曰く、明応7年戌午(1498年)12月26日 願主沙門 日佳敬白とある。本堂の須弥壇は桃山期の作と識者の間に定評がある。 『甚目寺町文化財報告書�[・甚目寺町の寺院〜縁起と由来〜・甚目寺町教育委員会発行から抜粋 』★(Web参照)
御杖銀杏の三社宮神社(海部郡の鎌倉街道5)★(Web参照)                Top 御杖銀杏 御杖銀杏は、鎌倉街道を旅してみえた一遍上人が萱津宿にこられた時、この三社宮の地に立たれ、手に持ってみえた杖を さしておかれたそうです。 その杖からいつの間にか芽が出て根をはり、何十年後かに大銀杏になったと云われています。 長い間に、この大銀杏もすっかり枯れ果ててしまいました。 不思議なことに、この枯れ果てた木の空洞から、また芽を吹いた若木が元気に育って立派な大木になりました。 御杖銀杏の一遍上人は光明寺を中心に暮らしに困ったり病気で苦しんでいる人を励まして、仏教を広めました。 その一遍上人にまつわる伝説が御杖銀杏です。 この御杖銀杏は、ずいぶん遠くから見ることが出来、旅人の目印となったそうです。 桜(名古屋市港区)の大楠、呼続の物見の松、萱津の大銀杏(御杖銀杏)が、鎌倉街道を旅する人の目印となったようです。 お年寄りの話では、昔は名古屋の古渡や佐屋街道沿いからも見えたようです。 今度お出たら 持ってきておくれ 萱津畷(なわて)の銀杏の葉 と歌によまれ、「大銀杏、大銀杏」と親しまれてきました。 三社宮はその名称からしても三柱の神が祀られていたものであろうが、今では忘れられている。 古老の云われによると熱田社、津島社、真清田社の三社とのことである。 甚目寺町昔話 甚目寺町教育委員会発行から抜粋
宝泉寺( 愛知県あま市下萱津銀杏木20 - 052-444-2550)            Top 宗派 浄土宗西山禅林寺派   本山は永観堂禅林寺 本尊は阿弥陀如来。創建は、1500年頃、室町時代後期と言われ、開山は喜叟源悦上人。創建当時の遺物が残っている。 信州善光寺で開眼供養された善光寺如来のご分身が本堂内に安置されている。また西国三十三観音ご分身も祀られている。 境内には、千体地蔵堂、弁天堂、六地蔵、おこり地蔵などがある。庭園は、茶道松尾流の設計によるもので、尾張の庭園らしく、 落ち着いた雰囲気を漂わせる。  この町名の由来である「池之堂」は、もともと宝泉寺に池があったことから、名前が付いたと言われる。 クスノキ(津島市保存樹)は、推定樹齢四百年。 Top
大治スポーツセンター(大治町HP)(大治町アクセスマップ) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 栗田直政                                    Top ― 尾張で名高い国学者 ― 栗田直政は文化4年(1807年)、大治町大字砂子に生まれ明治24年(1891年)84歳で没しました。神官の家に生まれたこともあって、 国学・和歌に志し尾張で名高い国学者となりました。特に著書の中で『源氏物語遠鏡』は、日本最古の古典源氏物語の研究書として、 国文学を研究する人にとって一読したい著書となっています。
明眼院                           Top 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 明眼院(みょうげんいん)は、愛知県海部郡大治町にある天台宗の寺院である。また日本最古の眼科専門の医療施設でもある。なお現在は、 医療行為は行っていない。 歴史 かつて尾張国海東郡馬嶋村(まじまむら)と呼ばれていたこの地に、延暦21年(802年)に最澄の弟子である聖円が、「五大山安養寺 (ごだいさんあんようじ)」として開基したのが始まりであるとされている(奈良時代の行基の開山とも伝えられている)。 南北朝時代に入ると、建武以後の争いの戦火で寺の大半が焼失して荒廃状態にあった。そこへ訪れた清眼法師(「馬嶋清眼」とも呼ばれている、 永和5年3月19日没)が付属の白山社とともに再興して、本尊である薬師如来にちなんで「医王山薬師寺(いおうさんやくしじ)」と改名した。 延文2年/正平12年(1357年)のある日、清眼が自房である蔵南房(同寺首座)で睡眠をとっていると、夢の中に異国人が現れて、眼病治療の秘伝 と眼病に効く霊水の在り処を告げた。目を覚ますと、その傍らに眼科専門の漢方医学の書が置かれており、夢で示された場所に行くと、霊水が湧い ていた。これを薬師如来の化身によるものだと考えた清眼は、その書を精読したところ、異国人が伝えた秘伝の意味が理解できるようになった。 そこで自房を眼病患者のために開放して、眼科治療を始めることになったのだという。 当時の眼科の治療法としては、内服薬・薬液による洗眼・軟膏貼付・粉末撒布の他に鍼や烙法による簡単な手術などであった。それでも内障 (当時は白内障や緑内障に限らず、硝子体や網膜の異常も含んだ)や結膜炎などの広範な治療に、効果を発揮していた。 その名声は朝廷にも伝わり、やがて永正15年(1518年)には朝廷の依頼を受けて、薬師寺の僧侶が後柏原天皇の眼病を治療する。次いで寛永9年 (1632年)に当時の13代目住持円慶が後水尾天皇の皇女の眼病の治療にあたったことから、天皇の賞賛を受けて「明眼院」の寺号を授けられて 勅願寺の格式が与えられた。その頃、明眼院に治療に訪れたキリシタンが幕府や尾張藩の迫害を逃れていわゆる「キリシタン灯籠」を寄贈した。 円慶らはその真意を悟ったものの、困窮するものを見捨てられないとして密かに安置することを許してこの事は明治維新まで寺の極秘とされていた。 後に住持円海が桜町天皇の皇女の治療にあたったことから、明眼院の住持を権大僧正に任じた。 こうして、同院の名声は広まって全国各地から診察を求める患者が来訪し、大名の小堀政一(遠州)や画家の円山応挙、国学者の本居春庭 (宣長の嫡男)なども同院で治療を受けたとされている。また尾張藩からも寺領として36石が与えられていた。 しかし明治維新後に神仏分離令や医事法などの制定によって、古代以来の僧医(僧侶が医師としての医療行為を行う者)が禁じられたこともあって 衰微してしまう。戦後になってから、その歴史的価値が見直されて再興された。江戸時代に患者から礼物として寄贈されたもの (後水尾天皇御物や小堀政一所持の茶器他)などを中心に多数の文化財を有する。 なお、東京国立博物館の裏庭にある応挙館は寛保2年(1742年)に明眼院の書院として建てられたものを衰微期に三井財閥の益田孝によって引き取 られて、品川区御殿山の益田邸に移築し、後に博物館に寄贈されたものである。同館内の円山応挙作の襖絵は応挙が治療の御礼に描いたものである とされている。また、今日、「馬嶋」姓を名乗る眼科医が多いと言われているのは明治以後に医療活動を禁じられた明眼院の僧侶の中に西洋眼科学 を学んで眼科医としての活動を再開し、その際に明眼院の所在地であった「馬嶋」を姓として名乗ったからだという説もある。 Top (★参考PDF�@)(★参考HP�A)
佐屋街道   Top
佐屋街道(さやかいどう)は、江戸時代に東海道の七里の渡しの迂回路として開設・利用された脇往還で、東海道宮宿と桑名宿とを結んでいた。
佐屋路(さやじ)とも呼ばれる。
 概要
東海道の宮宿と桑名宿との間は七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合
もあった。船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用
されたのが、この佐屋街道である。
宮宿から佐屋宿まで陸路で六里を行き、佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。
宿場は東海道のものに比べれば小規模であり、渡し場のあった佐屋以外は本陣も一軒ずつしかなかった。
 歴史
佐屋街道は1634年(嘉永11年)、徳川家光の上洛に伴って開かれたものであるが、大坂夏の陣へ向かう徳川家康が佐屋を通ったとの記録もあり、
それ以前から既に道としては存在していたと言われる。開設された当初は万場、佐屋の2宿であったが、1636年(嘉永13年)に岩塚宿が、1647年
(正保4年)に神守宿が設けられた。1666年(寛文6年)には東海道の脇往還として幕府に公認されている。明治期に入ると明治天皇の往来にも
繰り返し使用された。しかし、幕末から明治にかけての交通量の増大に応えられなくなったほか、佐屋湊の設けられていた佐屋川(現在は廃川)
の土砂の堆積により川船の往来が難しくなったことから、1872年(明治5年)1月8日の太政官布告により新たに前ヶ須(弥富市)を通る新東海道が
定められ、佐屋街道はその歴史を終えた。
 宿場
東海道 宮宿(名古屋市熱田区)
岩塚宿(名古屋市中村区) / 万場宿(名古屋市中川区)
この2宿は庄内川を挟んで隣接しており、ふたつで1宿として機能していた。月の前半15日は岩塚宿が、後半15日は万場宿が人足継立や休泊の役
を務めた。庄内川を渡る万場の渡しについては万場宿側が管理した。
神守宿(津島市)
佐屋宿(愛西市)
この間、三里の渡し
東海道 桑名宿(桑名市)                      Top

★佐屋街道さやかいどう(HP)(Mapあり) 佐屋街道は、寛永3年(1626年)と11年(1634年)の三大将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められた。寛文6年(1666年)には幕府の 道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が 行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや 十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872年)の熱田 と前ヶ須新田(現弥富町)を結ぶ新道の開通によりその役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。 佐屋街道の見どころ宮宿は荘厳広大な熱田神宮、源頼朝生誕地、東海地方最大の前方後円墳である断夫(だんぷ)山古墳、岩塚宿には日本武尊 腰掛岩や尾張三大奇祭「きねこさ祭」で名高い七所神社等、観光スポットが点在しています。神守宿は唯一現存する一里塚、枡形の両側の古い 町並みもみどころの一つです。                                   Top
★光円寺(佐屋街道ウオーキングHP参照) ★信長・フォトストーリー(聖徳寺山門)HP参照
★万場宿 万場宿(まんばじゅく)は、佐屋街道の宿場である。現在の愛知県名古屋市中川区万場に存在した。 庄内川と新川に挟まれていた。 概要 佐屋街道は1634年(嘉永11年)に開設され[1]、万場宿は開設当時から設置されていた宿場である。 1636年(嘉永13年)に、庄内川の対岸に隣接して岩塚宿が設置されると、このふたつで1宿として機能するようになる。 月の前半15日は岩塚宿が、後半15日は万場宿が人足継立や休泊の役を務め、庄内川を渡る万場の渡しについては万場宿側が管理を行った。 天保年間の規模は、本陣1軒と旅籠10軒。脇本陣は設置されていなかった。 ★岩塚宿(★HP) 東海道の脇街道として利用されていた佐屋街道の宿場として、1636(寛永13)年に整備されたのが、「岩塚宿」である。 岩塚本通りから少し脇に入ったあたりにある岩塚宿場跡を中心として、南北に当時の街並みを思わせる風景が残されている場所が存在する。                                           Top

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