一宮友歩会・第30回ウオーク例会 (下見・例会)・(拡大版)
史跡巡り・西尾張編Part8 参加
(下見:平成22年12月18日(土)天気:晴れ 参加9名 例会2月5日参加68名 天気:晴れ)
午前7時10分自宅車発→清須市駐車→名鉄本線須ヶ口駅→萱津神社→(鎌倉街道)→実成寺→三社宮大杉
→大治スポーツセンター→明眼院→(佐屋街道)→万場宿→岩塚宿→近鉄烏森駅解散→名古屋駅→枇杷島駅
→祖父江ふれあいの郷→帰宅
(12.18下見の歩数:33,094歩)(2.5例会の歩数:34,134歩)
★コース(解説詳細)案内はこちらを参照してください。
★友歩会参照 ★萱津神社 ★ 鎌倉街道 ★清須市(HP) ★清須市観光協会 ★明眼院 ★佐屋街道
★実成寺 ★万場宿・岩塚宿 ★あま市(HP) ★大治町(HP) ★栗田直政 ★大治町イラストmap(PDF)
★三社宮神社 ★尾張 萱津古戦場
例会受付(須ヶ口駅前) |
萱津古戦場跡の碑nisi006 |
萱津神社へ008(漬け物祖神の像) (神社の前は鎌倉街道) |
萱葺き屋根の漬物小屋 萱は昔萱が生い茂っていたので名づけられた |
実成寺nisi018(解説)寺の前は鎌倉街道 |
釈迦涅槃石像(実成寺) |
住職の説明を聞くことができた |
耐震構造に改修された(実成寺本堂) |
三社宮神社027(大杉) |
一遍上人の御杖銀杏(三社宮) |
上海出征記念の砲弾があった |
大治町スポーツセンター(休憩) |
大治町スポーツセンター:032(PDF) |
明眼院と金剛力士像nisi045(尾張名所図絵) |
鎌倉時代運慶作といわれる |
鎌倉時代運慶作といわれる |
明眼院の裏庭048(小堀遠州の造園) |
秀吉が朝鮮から持ち帰った石灯籠nisi050 |
明眼院の裏庭にある三重塔053 |
馬島社(昼食)057 |
佐屋街道と馬島明眼院道との分岐点063 |
高札場跡(佐屋街道)065 |
自性院(休憩) 067 |
栗田直政記念碑069(江戸の国学者pdf) |
十二所神社の鳥居前071(佐屋街道) |
新川を渡る073 |
尾張(冨田)聖徳寺の山門を移築したもの ★光円寺参照(佐屋街道沿い) |
万場宿渡しの常夜灯081(佐屋街道) 庄内川堤防の万場大橋南脇にある |
万場大橋を渡る |
七所社へ寄る084 |
七所社087(由緒) |
日本武尊腰掛け岩090 (七所社内) |
古塚091(七所社内) |
岩塚宿場跡097(佐屋街道) |
ゴールの烏森駅前104 |
近鉄烏森駅105(右手) |
第30回ウオーク例会 史跡巡り・西尾張編Part8 参加 14km 例会案内から (Top) 第30回ウォーク例会・開催要項 1.開催日時 平成23年2月5日(土) 9時〜(15時) 2.集合場所 名鉄本線 須ヶ口駅 3.コース等 須ヶ口駅→萱津神社→(鎌倉街道)→実成寺→三社宮→明眼院 →(佐屋街道)→万場宿→岩塚宿→近鉄烏森駅 4.参加費 300円(中学生以下無料、小学生以下は保護者同伴)★友歩会参照 Top 尾張 萱津古戦場(Kayazu historic battleground)(Web解説) Top 【愛知県あま市上萱津字八剱】 【立地】平地 【歴史】清洲織田信友×那古野織田信長の跡目相続争いである。1551年信秀が亡くなると、1552年8月15日 清洲織田家の坂井大膳、河尻与一、織田三位らが謀議して、松葉城の織田伊賀守、深田城の織田右衛門尉を人質に両城 を占領した。この知らせに、16日信長は那古野城を出立し、稲葉地の川岸まで出陣した。守山の織田信光と合流し、 一手に海津口へ攻め寄せ、清洲織田家も海津村へ進出した。辰の刻、信長が攻めかかり、数時間火花を散らして戦った。 遂に清洲勢は敗れ、松葉、深田両城も信長の攻撃で奪回した。現在は“萱津古戦場跡”の石碑が立つ。 【所感】五条川に架かる県道126号線法界門橋信号を南へ曲がり、100m程進んだ三叉路を右へ萱津用水に沿って 下って行きます。初めての交差点を右へ曲がり、次の辻を越え、右手の“甚目寺町第6分団(上萱津)”と書かれた赤い 建物横に石碑が在ります。建物に隠れて道路から入った場所に在るので、分かりづらいかも。★その他のWEB解説 |
萱津神社(Web参照) Top 萱津神社とは、甚目寺町にある漬け物で有名な神社です。 萱津神社の名前の由来は、 萱・・・海辺においしげっている「かや」 津・・・もともと港町 神社・・・神様と言う意味だよ! つまり萱津神社は、海の近くにあったってことだね! 香の物殿では、毎年8月21日に、香の物祭りといって、漬け物をまつるお祭りをします。 このお祭りには、何千人もの人が参加します。ぜひみんなも参加してみてわ・・・。 そして、参加した人たちは、漬け物を、漬ける事ができます。おもに、うり・なす・大根などをつけます。 その際に、たで(防虫剤に使われているもの)を、いっしょに漬けます。 萱津神社の漬け物は、すごくからいです。 なぜからいのかは、来る人みんなが、「幸せになりますように・・」と、塩をたくさんいれたからです。 縁結びの神様になった理由は、ヤマトタケルのミコトが、いぶき山で、豪族と戦った。 その時に、ヤマトタケルノミコトが、妻のミヤズ姫のミコトに、遺言をのこした。ミヤズ姫は、もう会えないと なげき悲しんだ。今後私たちのように会えない人がいないようにヤマトタケルノミコトが、さかきを植えた。 献榊祭(縁結び祭)という祭りが、毎年4月の第二日曜日に、行われます。他にもいろいろな祭りが、おこなわ れるので、ぜひ参加してみてください。 ★wikipedia(参照) |
佐屋街道 Top 佐屋街道(さやかいどう)は、江戸時代に東海道の七里の渡しの迂回路として開設・利用された脇往還で、東海道宮宿と桑名宿とを結んでいた。 佐屋路(さやじ)とも呼ばれる。 概要 東海道の宮宿と桑名宿との間は七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合 もあった。船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用 されたのが、この佐屋街道である。 宮宿から佐屋宿まで陸路で六里を行き、佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。 宿場は東海道のものに比べれば小規模であり、渡し場のあった佐屋以外は本陣も一軒ずつしかなかった。 歴史 佐屋街道は1634年(嘉永11年)、徳川家光の上洛に伴って開かれたものであるが、大坂夏の陣へ向かう徳川家康が佐屋を通ったとの記録もあり、 それ以前から既に道としては存在していたと言われる。開設された当初は万場、佐屋の2宿であったが、1636年(嘉永13年)に岩塚宿が、1647年 (正保4年)に神守宿が設けられた。1666年(寛文6年)には東海道の脇往還として幕府に公認されている。明治期に入ると明治天皇の往来にも 繰り返し使用された。しかし、幕末から明治にかけての交通量の増大に応えられなくなったほか、佐屋湊の設けられていた佐屋川(現在は廃川) の土砂の堆積により川船の往来が難しくなったことから、1872年(明治5年)1月8日の太政官布告により新たに前ヶ須(弥富市)を通る新東海道が 定められ、佐屋街道はその歴史を終えた。 宿場 東海道 宮宿(名古屋市熱田区) 岩塚宿(名古屋市中村区) / 万場宿(名古屋市中川区) この2宿は庄内川を挟んで隣接しており、ふたつで1宿として機能していた。月の前半15日は岩塚宿が、後半15日は万場宿が人足継立や休泊の役 を務めた。庄内川を渡る万場の渡しについては万場宿側が管理した。 神守宿(津島市) 佐屋宿(愛西市) この間、三里の渡し 東海道 桑名宿(桑名市) Top |