一宮友歩会・第32回ウオーク例会 
(下見・例会)(拡大版)
 河川探訪天白川編Part1 参加 
(下見:平成23年4月23日(土)天気:雨 参加8名  例会6月4日 参加61名 天気:晴れ)

午前7時10分自宅発>名鉄一宮駅7:51>神宮前駅乗り換え8:22>大江駅乗り換え8:31>柴田駅8:34>
9:10ウオーキング出発→須佐之男社→西来寺→浦里公園鶴里公園→(天白川緑道)→すがた緑道(保呂公園)
→植田下水処理場→地下鉄植田駅(解散)→JR鶴舞駅→名古屋駅→一宮駅>帰宅

(4.23下見の歩数:27,134歩)(6.4例会の歩数:28,236歩)

コース(解説詳細)案内はこちらを参照してください。

須佐之男社 西来寺 天白川 永井星渚出生地 永井荷風 雉本朗造

友歩会参照 天白川Part2


名鉄常滑線柴田駅スタート1001

源兵衛公園(休憩)1003  

名鉄常滑線柴田駅受付

源兵衛公園(休憩)007  

伊勢湾台風殉難者慰霊碑t002

須佐之男社の巨古木007

初夏の下、天白川右岸を歩く015

地蔵寺で休憩018 

須佐之男社1004

左:天白川1009

鳴尾公会堂019

公会堂支柱にねずみよけがあった020

牛毛神社1013

西来寺本堂1017

永井荷風追慕碑(人生の真相は寂寞の底に
沈んで初めて之を見るであろう)1019西来寺境内

雨中の中、天白川を遡る
1020

左:天白川1023(河川の合流)

桜並木の堤防を歩く

下水処理場の排水口030

星の宮人工橋を渡る031

雉本博士銅像道t036

雉本博士の銅像t034(解説

右岸を上る038

中江公園で昼食039

公園のアジサイ042

中江公園で昼食043

平子橋から見た下流(左は住宅群)049

同、天白川上流050

桜並木のすげた緑道053

緑道の木陰で休憩(右手前は保呂公園)054

円形状の段差(天白川)1030

この橋を渡ると下水処理場がある1034

馬蹄形の段差(川の水が中央を向く)059

橋を渡ると下水処理場だ062

下水処理場は地下にある063

ゴールの植田駅前公園でクールダウン069

雉本朗造先生の像t021(浦里公園内)

雉本 朗造(きじもとときぞう) −鳴海争議を指揮した京都帝国大学教授−
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河川探訪シリーズ・天白川編
【part2】14km例会案内(Top

第32回ウォーク例会・開催要項 
1.開催日時 平成23年6月4日(土)
       9時〜(15時)
2.集合場所 名鉄常滑線 柴田駅
3.コース等 
柴田駅→須佐之男社→西来寺→浦里公園→
鶴里公園→(天白川緑道)→すがた緑道→
植田下水処理場→地下鉄植田駅

友歩会参照            Top


雉本朗造は,ドイツで民事訴訟法を学んだ後に
日本の民事訴訟法を体系化し,「大正デモクラ
シ−の理論的旗手」と称され、京都帝国大学法
学部教授であった人物である。
1917年(大正6)は,長雨にたたられ稲の出来
が予想外に悪かった。そこで鳴海の小作人は,
凶作を理由に小作料の引き下げを要求し,
「鳴海争議」がぼっ発する。
雉本家にかつて出入りしていた小作人が,大学
教授で高い法律知識をもつ彼に争議への協力を
願い出た。こうして1920年(大正9)に仲裁に
入った彼に対し,地主側がまったく応じようと
しなかったため,彼は農民の側に立って裁判の
参加に踏み切る。鳴海争議は長引き,1922年
(大正11)には国会でも問題となり,全国の
注目を集める中で,翌年に和解が成立し,小作
料が引き下げられた。
しかし,和解の場に彼の姿はなかった。前年に
静養先からの帰途,船上から姿を消し,遺体で
発見されたのである。自殺・事故・他殺…真相
は,現在でもなぞである。  Top

永井星渚出生地                  Top

須佐之男社(HP)                                                            Top

 名古屋市中川区柳川7丁目に所在する須佐之男社は、慶長年間(1596?1614)に熱田区住吉町住吉神社と
ともに堀川の東西に奉鎮されたもので、津島神社より勧請されている。昭和14年(1939)に本殿などの社殿
が竣成されたが戦災に焼け、昭和27年(1952)に再建され、平成12年(2000)に大規模な修復が行われた。
社名などからみて、主祭神は建速須佐之男命と推測される。
柳川須佐之男社は、正面から灯籠、鳥居、蕃塀、灯籠2対、壁の無い吹き抜けの妻入拝殿、灯籠、渡殿から
基壇上の本殿施設群(本殿など)に至る構成を持つ。
所在地地図


西来寺(←Web:写真&地図)          Top  開田和尚の門扉で名高い西来寺の開基は、遠く明応4年(1495)にさかのぼる。  真言宗、地蔵寺として祐禅阿闍梨が、今の名古屋城正門西北付近に建立した寺である。  本尊は弘法大師と伝えられる木像の地蔵菩薩である。その後荒れるがままになって居た寺を慶長 (1569−1614)のはじめに楽甫和尚が真言宗を曾洞宗に改め、寺号も西来寺とした。  名古屋城築城とともに、寺も現在の田幡の地に移ってきた。尾張藩四代藩主徳川吉通の乳母は、 5世住持伝和尚の母であった。その縁で寺は尾張藩から特別の厚遇を寄せられた。  西来寺は戦火にまぬがれたので、円覚院「吉通の戒名」の遺品が寺に大切にしまわれている。 柵原商店街の神社仏閣から −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 戦国時代、御深井字多利に地蔵院として開山。慶長年間、名古屋城築城計画により田幡村の現在地 に移された。 達磨大師尊信の尾張4代藩主吉通公の厚遇を受け、達磨大師の少林寺に因み、少林山西来寺と改号。 豪僧開田の逸話の山門は武家風門扉として有名。 (北区役所区民生活部まちづくり推進室まちづくり推進係)
天白川(Wikipedia)     Top 天白川は、愛知県日進市から名古屋市を流れ、伊勢湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。 愛知県日進市東部の名古屋商科大学付近に源を発する。日進市を西へ流れ名古屋市へ入ると天白区 を横断。各区および東海市の境界を流れ名古屋港へ注ぐ。天白川大橋付近から星園橋付近までは 天白川緑道として整備されている。
すがた緑道    Top 植田下水処理場(map) 名古屋市上下水道局(HP) 永井荷風(wikipedia)
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