一宮友歩会・第38回ウオーク例会(下見・例会参加)(
詳細版拡大版) 
 史跡巡り西尾張編Part9 (専修院・悟渓屋敷他)
(下見:平成24年4月28(土)天気:晴れ、9名)(歩数:34,305)
(例会:平成24年6月2日(土)天気:晴れ 参加者42)(歩数:34,835)

コース:6:30自宅発(おにぎり等持参)→名鉄羽島市役所前7:12→笠松・新岐阜乗換・新鵜沼・★柏森8:41着・溌>
→準備体操他9:10発→専修院→悟渓屋敷→般若用水元杁跡→端折長柄傘→木曽川犬山緑地→犬山市本町→
→小野洞砂防公園→★富岡前駅→犬山→新鵜沼→岐阜→笠松→江吉良駅→帰宅 コースマップ参照(PDF)

犬山観光情報 扶桑町 御囲堤(WP)濃尾用水の歴史(濃尾用水拾余話)全員集合友歩会


名鉄柏森駅前で受け付けka62001

準備運動後出発ka62005

名鉄柏森駅033

専修院東門(由緒参照)犬山城にあった門042

専修院本堂ka62007

専修院から悟渓屋敷へ向かうka009

悟渓寺(悟渓禅師の生誕地)043

悟渓寺枝垂れ桜046  TOP

枝垂れ桜@6.2 ka62016

枝垂れ桜A6.2 ka62017

木曽川扶桑緑地公園を行く050

般若用水元杁跡の説明(▽は岩手村石垣で囲った)051

木曽川お囲い堤(岩手村)の堤防の石垣 055

小渕の渡し跡056  TOP


山那神社のケヤキ(扶桑町の文化財)(fi62t064)



左は犬山〜弥富までの御囲堤の模式図
(fi62t061)

上部に天正14年(1586)以前の木曽川の流れ筋(本流)が
描かれている。これが現在の境川筋となって残っている。

(この洪水以降、ほぼ現在の川筋が形成され秀吉によって
濃尾の境界とされた。)

御囲堤は、上部(馬踏)外法(尾張藩側)内法(木曽川)
馬踏の左下(内法側)に犬走がある。
高さは敷(しき)から馬踏までが10.9〜18.2m
   敷(しき)から犬走までが5.4m
                          TOP

木曽川沿い新緑の遊歩道を行く074

新緑の遊歩道は涼しくて心地よい075 

遊歩道沿いの木曽川077

川と緑が美しい木曽川沿いを歩く079

遠くに犬山城が見えた081

清々しい新緑の木曽川沿いを歩く082

新緑の木曽川には多くの水鳥たちがいた083

バードウオッチングのカメラがあった084

犬山城遠望085

中央左の1が百間猿尾089

端折長柄傘の説明(尾関さん)創建は慶長年間とかka62030

端折長柄傘(カラフルな絹糸で装飾)ka62031

制作中の端折長柄傘ka62033

部品の竹製品ka62034

犬山緑地公園(mapion)で昼食ka62046

全員集合ka62048(背後は伊木山)

犬山の唐寺(先聖寺)093

先聖寺本堂096

先聖寺本堂の天井の龍098

本堂石造りの柱の彫り物100

庭から本堂手前の階段にある龍102

木魚、口に咥えている丸い玉は煩悩とか103

木魚(口の玉に注意)ka62051

本堂の正面(中央の階段にも龍の彫刻102参照)104

この日は犬山踊芸祭があったka62053

針綱神社元宮跡の碑(以前ここにあった)107

どんでん館:針綱神社の祭礼犬山祭りの山車4両展示108

電線が地中化され街並み保存された本町通り113

本町通りの店114

本町通りの店115

水戸黄門さんと一緒にka62057

鎧兜を着けた芸人たちka62063

本町通りのまちのFM放送室ka62066

本町通りを右折ka62064

犬山踊芸祭の看板kat070

蔵の保存(大正7年建造)米清旧宅隣kat067

米清旧宅117

新郷瀬川沿いに歩く126

新郷瀬川、正面は鯉のぼり128

ひばりが丘公園へka62072

ひばりが丘から浄水場を見る135

浄水場136

ひばりが丘から小野洞砂防公園に架かる橋137

小野洞砂防公園の説明ka62076

小野洞砂防公園139

小野洞砂防公園142

小野洞砂防公園を歩くka62078

小野洞砂防公園の砂防石垣143

富岡前駅に向かうka62079

名鉄広見線富岡前駅(ゴール)149
扶桑町(公式HP)    TOP

専修院東門
犬山城にあった7つの門のうちのひとつ矢来門(形は高麗門)。 このような門は、お城特有のもので、神社やお寺には
珍しい。  TOP

悟渓屋敷 扶桑町南山名地区にある悟渓屋敷。正式には扶桑町指定文化財『史跡・悟渓屋敷(別名:悟渓寺)』と言い徳川家 3代将軍家光から「国師」の称号を与えられた悟渓禅師の生誕地として500年あまりにわたり地区を挙げて守り続 けられてきたそうです。 樹齢55年・直径10mと言われる円錐型の枝垂れ桜       TOP
般若用水元杁跡 般若杁は尾張最古の元杁である現在の場所(扶桑緑地公園内)は寛永11年(1634)以後のもので、それ以前は 約70メートル下流にあった。 木曽川は河道の変動が激しく、絶えず澪筋(雨のないときでも水が流れている川筋)が変わったり、杁付近に土砂が 堆積して取水が困難となります。やがて大野杁は宮田村の宮田西杁へ移り、般若用水も水量不足のため、宮田村に 取水口(東杁)を設け、新般若用水を開削しました。 ここに現在の宮田用水の原型が完成されることになります。TOP
端折長柄傘 民芸の大家柳宗悦の尽力によって、一躍全国的に名が知られるようになった。端折傘は、野点の茶会やガーデンパ ーティー等に愛用され、外国にも輸出されている。 扶桑町無形文化財 野点やお茶会、寺院の儀式で華やかさを放ち、場の雰囲気に趣をもたせている朱色の傘を見かけたことはありませ んか。その傘こそ儀典用端折長柄傘(つまおり傘)です。骨の端を内側に折り曲げた長柄の傘で、その昔、公家や 僧侶、馬上の貴人などに後ろからさしかけたりと、広く利用されてきました。 また、豊臣秀吉が醍醐の花見の際 に用いたという記録も残っており、近年では野点の席に使われることはもとより、パーティー、室内装飾などの 分野にも広く愛用されています。約400年、14代にわたり、つまおり傘の製作を続ける山那地区の尾関家では、今 なお、伝統の技法が守り継がれています。 TOP
木曽川犬山緑地(木曽川犬山緑地多目的グラウンド 犬山観光情報 TOP
□■ 小野洞砂防公園 □■ 平成7年、市政40周年を記念して地区公園として整備されたのがこのひばりヶ丘公園です。 小野洞砂防公園は、それに隣接する公園で、砂防工法を学べる公園です。 小野洞砂防公園は、ダムや山崩れの防止のための工法が勉強できる。 このコンセプトが魅力に欠けるためか、ほとんど誰もいないけれど、なかなかきれいな公園。 面積はそれほどでもないが、遊歩道は、様々な工法を見ながら歩けるようにジグザグに作ってあるので散歩 には最適。川・吊り橋・東屋・木道など、いろんなものがあって飽きない。TOP
御囲堤(おかこいつつみ)とは徳川家康の命により尾張国(現愛知県)に築かれた木曽川左岸の堤防である。
 (Wikipedia参照)  TOP
歴史
 御囲堤の原型は文禄3年(1593年)豊臣秀吉によって築かれたと言われる。尾張国は天正14年(1590年)6月の木曽川の
大洪水によって大きな被害を受けていた(なお、この洪水で木曽川の本流は大きく流路を変え、それまでの葉栗郡、
中島郡、海西郡は木曽川によって2分され、木曽川の右岸となった地域は美濃国に編入された)。
当時、尾張は豊臣秀次の所領であったが、秀吉は文禄2年(1592年)11月末から12月初旬まで洪水で荒廃した尾張に滞在し、
自ら振興策の遂行を指導している。これにより翌文禄3年正月には築堤が開始された。
しかし、堤を築かせた理由は洪水の対策よりは、幾筋にも分かれていた木曽川の流路を固定し、水流や水量を安定させ、
渇水期でも川を使って大坂城や城下町の建設に使用する木曽檜等の木材を運ぶ事ができるようにする目的にあったとも
言われる。
 関ヶ原の戦い後、尾張国清洲城に徳川家康の九男、徳川義直(尾張藩初代藩主)が入城する。関ヶ原の戦い後も豊臣秀頼は
健在であり、徳川幕府にとっては豊臣家及びその家臣の存在は大きな問題であった。
この豊臣家の侵攻から西国に対する拠点である尾張藩を守るという軍事的目的で、伊奈備前守忠次の指揮により1608年
(慶長13年)、御囲堤の築堤が始まり、翌年完成した。
 また、築堤当時は徳川家康が木曽山を自身の直轄領としていた(後に尾張藩に加増)ことから、木曽川の水運も重要視して
いたことが推測される。
 大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと御囲堤の軍事的意味は薄らぎ、尾張藩を木曽川の洪水から守るという目的が強くなる。
また、木曽山を含む美濃国の木曽川沿いの重要な拠点も尾張藩領となり、木曽川の水運権とともに、木曽川そのものに対し
ても尾張藩が強い支配力を持つようになった。
 尾張国内の多くの地域では御囲堤により木曽川の洪水の脅威はほとんどなくなった。しかし、木曽川から分流する河川は
全て御囲堤により締め切られ、この河川を農業用水としていた村々は水不足に悩まされることとなった。そこで尾張藩は
農業用水の建設にも着手し、大江用水(宮田用水)、木津用水(合瀬川)、般若用水、新木津用水、新般若用水等が造ら
れ、入鹿池などのため池を整備した。
 御囲堤の規模・構造
 現在の愛知県犬山市から弥富市までの木曽川左岸に、約48kmにわたって築かれている。御囲堤の高さは9.1m〜14.5mある。
堤の川側に外法(そとのり)という法面 があり、堤防の上には馬路(ばぶみ)という幅10.9m〜18.2mの平らな部分がある、
陸地側には犬走り(いぬばしり)という幅5.4mの段差がある。その法面を内法(うちのり)という。
 御囲堤には桜が植樹された箇所が多い。幕府が、人々が桜を観賞することにより堤防が踏み固められると考えて植樹した
と言われている。
 美濃国との関係
 元々対岸の美濃側の方が地盤が低かった上に尾張国側にさらに堤防が築かれたことで美濃国側で水害が激増した。美濃国
は江戸時代を通じて洪水に悩まされ続け、各村は村または周辺の村と共同で土地を堤防で囲み、輪中を造って洪水に備える
ことになった。また、尾張藩の洪水を防ぐために、美濃国は御囲堤に対し3尺(約1m)低い堤防しか築いてはならないと
いう不文律が存在したと言われる。
 ただし、美濃側の堤防を低く抑えさせたことについては、当時の史料・記録類からは確かめることが出来ず、尾張側の
堤防が三尺高くされたのも江戸後期の寛政年間とされる。また、御囲堤は木曽川の川筋よりも内陸側に築かれたことと
河口までは伸びてはいなかったことから、尾張国内でも、堤より川側の愛西市旧・立田村域、河口付近の弥富市などの地域
では輪中が造られる等の状況が見られたし、そもそも美濃の輪中地域にも支藩の高須藩を含めれば5万8千石分ほどの尾張藩
領が存在していた。そのため、御囲堤に関する伝承は、あくまで伝承の域に留めるべきではないかとの意見もある
(木曽三川流域誌編集委員会,中部建設協会/編、『木曽三川流域誌』、中部地方建設局発行、1992年)。
 また美濃側に洪水が多かったのも濃尾平野全体が西に傾斜しており、木曽三川では単に愛知県側(現木曽川)が一番水位
が高く、低い揖斐川方面に水が流れた結果だとも言える。しかし、尾張藩が他藩の堤の高さを規制し得たかはともかく、
小領の分立する美濃に対し、尾張一円を支配する大藩であり、木曽川上流の木曽谷まで領有し、木曽川流域に対する強い
権限を持つ尾張藩が、木曽川の治水に関して優位な立場にあったのは事実である。
 現在
 御囲堤の大部分は残っている。現在も現役の堤防である箇所が多い[要出典]。また、桜並木の一部は残されており、特に
一宮市の138タワーパーク周辺は花見の名所である。

また、濃尾用水の歴史(濃尾用水拾余話)参照のこと。  TOP
墨俣城(WP)(木曽川流路変更について参考)
築城時期は不明。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば
合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めたが、1561年
(永禄4年)5月の織田信長による美濃侵攻にあたって、または1566年(永禄9年)に木下藤吉郎(のちの
豊臣秀吉)が一夜城を築いたという逸話がある。

『信長公記』 太田牛一著。によれば、
 巻首「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後
これをを引き払う、との記述がある。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時
美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、
木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が
城として使われることはなかった。  TOP
犬山緑地公園で全員集合kaw047(2012.6.2) TOP

犬山市の本町通りで水戸黄門様を囲むkaw057(2012.6.2) TOP

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