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一宮友歩会・第36回ウオーク例会 
(下見・例会)(拡大版) 
 河川探訪堀川編Part1 14km 参加 
(下見:平成23年12月17日(土)天気:晴れ 参加9名  例会2月4日 参加66名 天気:晴れ)

午前7時10分発>名鉄一宮駅8:01>神宮前・常滑線乗り換え>道徳駅8:33>9:10ウオーキング出発→
→宮の渡し→白鳥御陵→断夫山古墳→闇ケ森神社→栄国寺→妙善寺→塩竈神社→ささしまライブ→名古屋駅>一宮駅>帰宅
(12.17下見の歩数:26,882歩)(2.4例会の歩数:27,605歩コースマップpdf参照
コース(解説詳細)案内はこちらを参照してください。   (写真は、デジカメ撮影(p)携帯カメラ撮影は(d)です。2.4は別名。)

友歩会参照 あつたウオーキングマップ コースマップpdf参照


名鉄常滑線道徳駅p002

道徳公園(駅西)集合・出発p004  

道徳公園005

寺沢会長挨拶horik002

堀川の漁船009  

右新堀川・左堀川・正面宮の渡し011

内田橋を渡る(新堀川)p014  

内田橋から正面の宮の渡しを展望015

熱田湊常夜灯horik009

七里の渡し(宮の渡し公園) p016  

horikt015

horikt016

公園から堀川下流を展望017

現在でも渡し船があるhorik021

昭和20年6月9日熱田空襲による堀川護岸壁弾痕の説明d006

熱田空襲による堀川岸壁の弾痕が生々しいd005

身代わり地蔵尊(一番割観音堂・第一番札所)p021  

白鳥プロムナードを行く(左:白鳥庭園)p023  10:09

白鳥プロムナード(右:堀川)d008  10:18

白鳥橋から堀川上流を展望p024  10:12

白鳥古墳horik030

断夫山古墳案内図(左堀川・右下断夫山古墳)

左:断夫山古墳horik033 2月4日残雪が見られた。

右:断夫山古墳horik035

熱田記念橋を渡って国際会議場へd016

国際会議場から熱田記念橋を望む d018  

国際会議場(堀川沿い)

国際会議場horik038

国際会議場ダビンチのスフォルツア騎馬像horik041

堀川の浚渫工事horik045

尾張元興時跡の説明horik046

左:堀川

為朝使用の鎧塚の碑horik050(闇之森八幡社内)k050

闇之森八幡社本殿horik048

正木公園で全員集合horik0204

名古屋別院horik054

名古屋東別院本堂  d030

別院境内にある古渡城址 d032

名古屋東別院内納骨堂  d033

下茶屋公園(休憩) d036

下茶屋公園horik060

栄国寺本堂horik068

栄国寺本堂039

本堂の鬼瓦(葵の紋が消されている)p040  

栄国寺切支丹遺跡博物館  dt042

切支丹灯籠(栄国寺) d048

栄国寺は名古屋市の中心部からやや南、東別院の近くにある寺で、
この付近は江戸時代初期、千本松原と呼ばれる処刑場であった。
罪人に混じって数多くの切支丹もこの地で処刑され、1649年町岡
新兵衛が石の供養塔を建てた。

その後も数多くの切支丹がこの地で処刑されたが、1665年、尾張
二代藩主光友は処刑場を現在の新川町に移し、跡地に処刑された
人々の冥福を祈るため清涼庵を建立、1685年栄国寺となる。


栄国寺(HP)参照

Top

七面山妙善寺  d053

妙善寺本殿 d055

正面に滝があり修行場があったhorikt072
(妙善寺)

日置神社の椨(たぶ)の樹 樹齢数百年 
台風で上半分切断 クスノキ科075

日置神社  d058

日置神社内力石(右いなり一石2斗・左はちまん一石6斗)d060

鹽竈神社説明  d030

鹽竈神社 p042 d032

無三殿大神(愛称むさんどさん)鹽竈神社内  d069

鹽竈神社境内の塩釜 d070

名古屋城築城の奥の巨石(鹽竈神社内)  d072

中央線ガード下の壁画 p043

中央線ガード下の壁画089

中央線ガード下の壁画090

ささしまライブへ向かう途中から見た駅ビル群  d075

駅ビル群093

ささしまライブ駅(あおなみ線) d078

ささしまライブから見た駅ビル群 d080

ささしまライブ工事現場094

ささしまライブ工事現場  d079

建設中の愛知大学(2012年4月開校予定)  d081

近鉄線など d082

歩廊を歩く  d085

駅ビル群horik095

ゴール(解散式)の名古屋駅西稲穂社 d088
河川探訪シリーズ・堀川編  Top
【part2】14km 例会案内

第36回ウォーク例会・開催要項 
1.開催日時 平成24年2月4日(土)
       9時〜(15時)
2.集合場所 名鉄常滑線 道徳駅
3.コース等:道徳駅→宮の渡し→白鳥御陵→断夫山古墳→
  →闇ケ森神社→栄国寺→妙善寺→塩竈神社→
  →ささしまライブ→名古屋駅

コースマップpdf参照
友歩会参照            Top


「用語解説」

宮の渡し(w)白鳥御陵断夫山古墳(w)闇ケ森神社

妙善寺栄国寺(w)塩竈神社ささしまライブ

堀川(w)新堀川(w)元興寺     Top

あつたウオーキングマップ
堀川(w)                           Top
愛知県名古屋市守山区にて庄内川から取水する形で発祥し、名古屋市中心部を南へ流れ伊勢湾(名古屋港)に注ぐ。
途中、中川運河と新堀川とつながっている。水深は潮の干満で変化するが1〜3m程度。川の流れも満潮時は逆流するので、川と
いうより運河である。
流域で、通称・愛称が異なっているのも特徴で、河口から順番に、朝日橋(堀留)までが「堀川」、黒川樋門までが「黒川」、
庄内用水元杁樋門までが「庄内用水」と呼ばれている。
水源は庄内川であり、庄内川の水分橋(みずわけばし)の西側のダム(「庄内用水頭首工」)でせき止められた水を取水口
(「庄内用水元杁樋門」)より取水し、水路は「庄内用水」として南下。
矢田川の下を三階橋の東側にあるトンネルでくぐり(「伏越」)、トンネル出口の三階橋ポンプ場(旧・黒川分水池)内で、
農業用水「庄内用水」と分岐し、水量調整用の水門「黒川樋門」に至り、そこから「黒川」・「堀川」として海に至っている。
名古屋市内のうち熱田から名古屋城周辺までの区間は熱田台地の西側に沿って流れているため、川の東岸が西岸よりも高く
なっている。                Top
宮の渡し(w) 宮の渡し公園
この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から桑名までの海上七里の航路の船着場跡です。
常夜灯は1625年、犬山城主成瀬正房が父正成の遺命で聖徳寺の隣地に建立したが風水害で破損。
1654年ここに移されたが、1791年付近の民家からの出火で焼失。
成瀬正典によって債権されたがその荒廃してしまったものを昭和30年復元した。    Top


宮宿(みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場である。 中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、 幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。 東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒、人口10,342人を 数えたという。古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされた。 桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていた。現在も、折りにふれて宮〜桑名間を遊覧船で渡る現代版 「七里の渡し」が行われる     Top
白鳥御陵断夫山古墳(w)

『断夫山古墳』
『断夫山古墳』(国史跡)は、熱田神宮公園内にあります。
東海地方最大の前方後円墳で、6世紀初頭に築造されたと考えられます。
前方部と後円部の間のくびれ部に「造り出し」と呼ぶ小丘部が西側にある。後円部は三段築成であったと思われ、一段目に
須恵質と土師の円筒埴輪を巡らしていた。
日本武尊の妃・宮簀媛の墓と伝えられるが、現在では尾張氏の首長で、娘である目子媛を継体天皇に嫁がせた事で天皇の外戚と
なった尾張連草香の墓と考えられている。
 〔規 模〕
  全長151m、前方部の幅116m、後円部の直径80m、
  前方部の高さ16.2m、後円部の高さ13m     Top


『白鳥御陵』
『白鳥御陵』は、断夫山古墳の南にあります。
6世紀初めごろの築造とされる前方後円墳。前方部と後円部の東側部分が削り取られ原形が損なわれている。
古くからこの古墳は、日本武尊の御陵との説があり、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び来り降り立った地であるところ
から白鳥御陵と名付けられたと伝えられる。が、尾張氏の墓と考えられている。
 〔規 模〕
  全長約74m     Top
元興寺(w) 場所map
元興寺(がごぜ、がごじ、ぐわごぜ、がんごう、がんご)または元興寺の鬼(がんごうじのおに)は、飛鳥時代に奈良県の
元興寺に現れたといわれる妖怪。平安時代の『日本霊異記』『本朝文粋』などの文献に話がみられ、鳥山石燕の「画図百鬼
夜行」などの古典の妖怪画では、僧の姿をした鬼の姿で描かれている。(Wikipedia元興寺妖怪から)
闇ケ森神社
闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)は、愛知県名古屋市中区正木町にある神社である。若宮八幡宮ともいわれる。
かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになった。
名古屋十名所のひとつ。
創建は長寛年間。源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」がある。
(Wikipedia)   Top
栄国寺(HP) ★(Wikipedia)
<概要>
栄国寺は,西山浄土宗の寺である。しかし,この寺の境内には,仏教とは無縁の切支丹遺跡博物館に代表されるキリスト教
関連の遺跡が多い。キリスト教は,イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1549年(天文18)に来日してから国内に広まっ
ていく。日本の統治者の対応は,以下のとおりまちまちであった。
織田信長(は許可し,豊臣秀吉はバテレン追放令を出して宣教師の追放を図り,2代将軍徳川秀忠は,禁教令を全国に拡大
した。栄国寺のある場所は,尾張(おわり)藩の刑場で千本松原と呼ばれていた。
刑死者の中には犯罪者だけでなく,キリシタンも多く含まれていた。1631年(寛永8)には57人,1664年(寛文4)には
200人にのぼるキリシタンの処刑がこの地で行われたことが確認されている。
城と熱田を結ぶ本町通りが近くを通り,人々の往来が激しくなったためか,尾張藩2代藩主徳川光友は,刑場を土器野
(かわらけの,現清須市)へ移した。それまでの刑死者の菩提を弔うために建立されたのが,清涼庵(せいりょうあん)で
あり,現在の栄国寺である。    Top
七面山 妙善寺
当山のおこりは延宝八年(1680年)、尾張藩第二代、徳川光友公の腫物平癒のため、尾張茶屋家二代目、茶屋長以が自ら
七面女神像を刻し、妙行院日行(情妙寺第三世)がご祈祷をした。平癒の後、光友公はこの話を聞いて長以の至誠を感じ、
神像を城中に迎え拝した。長以はこの女神像を賜わり、これを末森山に奉祀した。その後元禄六年(1693年)に松原の控
屋敷を挙げて寺地として七面宮を建立し、末森山から女神像を奉遷したい旨を発願して光友公に願い出たところ、元禄九年
(1696年)にお堂は落成して女神像は遷宮された。
*松原の控屋敷とは、寛文四年(1664年)に光友公が橘町と命名された現在地のことです。
尾張の国の安全第一を祈祷する一寺となり、愛知郡岩作村(現長久手町)の荒れた千手山妙禅寺をこの地におろし、七面山
妙善寺と改名し、京都大本山妙顕寺第十八世中道院日春上人を迎えて開山とした。(HP参照)
 
塩竈神社(HP) 塩竈神社(鹽竈神社)(HP)
(鹽竈神社)
名古屋市中川区西日置、西日置商店街の一角にある鹽竈神社は「安産」のご利益が有ると言われている。この神社の由来は、
祭神、塩土老翁命(しおずちみじ)、武壅槌命(たけみかつち)、経津主命(ふつぬし)例祭、毎年十月九・十日。社伝に
よれば名古屋城築城の際、岩田藤忠なる武士が工事無事、遂行守護を神に祈願する為、仙台の鹽竈大明神を勧請して、日置、
古渡の両部落の村境に奉斎したのが始まりと伝えられています。
築城関係の大名の信仰が篤く、福島正則が御手洗盤を寄進した他に、延宝年間(1673〜81)には尾張藩の武将、松平
康久が社殿を改修している。文化十三年(1816)秋に日置村字巾に、天保六年(1835)九月に日置村字中田
(現在地)に遷座した。

塩竈神社(しおがま)神社は天白区八事にも有り読みは同じなのですが字が違います。天白区の神社は小高い所にありサクラ
の名所でも安産の神様でも有るのです。お間違えの無いようにして下さい。    Top
名古屋東別院境内図(HP参照) 下茶屋公園(HP参照) 場所のMAP  Top
この一角全体がかっての古渡城の跡である。下茶屋公園の北が千本松原の処刑場の案内板が建っている橘公園である。
そこから100mぐらい西に行けば切支丹博物館のある栄国寺である。
 東別院は、元禄3年(1690)、2代藩主徳川光友より古渡城の跡地1万坪の寄進を受けて建てられ、「名古屋御坊」
と称した。
明治維新後、明治4年(1871)に「名古屋本願寺」、明治6年(1873)に「名古屋管刹」、明治9年(1876)には、
「本願寺名古屋別院」と改称し、境内建物も逐次整備され、全国有数の別院として発展してきた。
毎月12日が縁日で、人々には「御坊さん」の名で呼ばれ親しまれてきた。「浄土真宗大谷派名古屋別院」というのが
現在の正式な名称である。
 下茶屋公園は、「名古屋御坊」新御殿の北庭があったところである。「名古屋別院」所蔵の平面図には「新御殿御庭」
という別記があるそうだ。天保のころ落成の建築群に伴って作庭されたという。
この庭の平面形が下茶屋公園によく残されており、江戸時代後期の庭園として貴重なものだそうだ。名古屋別院も御庭も
戦災で焼失したため、戦後に復元されたものである。現在の下茶屋公園は、ホームレスの小屋がけも排除され
(柵をぬってひとつだけテントがけしているが)、高低差のある都心には珍しい回遊式庭園となっている。  Top

橘公園と「おためし場腑分けの跡」(Hp参照) 下茶屋公園の向いには、橘公園ですが、ここには「おためし場腑分けの跡」があります。この地は旧称新屋敷で、藩士の 新刀試しに供した場所であったといわれます。文政四年(1821年)冬、ここで名古屋最初の人体解剖(腑分け)が行なわ れたという。当日の参観者は吉雄俊蔵はじめ六十余名、石黒済庵の執刀により東西の医書を対照して行い、洋書の正確な ことを知った。ちなみに、明和八年(1771年)杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってよ83年後のことです。 しかし、少し時代を遡るとこんな話もあるようで、これが真相かもしれないです。 信長は、キリスト教に対して寛容な政策をとっていたため、その当時、200人ほどのクリスチャンが、名古屋にはいたそう です。しかし、時代が進み、江戸時代になると、キリスト教への弾圧は次第に激しくなり、とうとうここで、全員が処刑 されることとなったそうです。処刑された死体は、先ほどの橘公園へと運び、新刀の試し切りに使っていたとのことだ。 解剖は、その一環として行われたに過ぎず、刀の試し切りが本来の目的だった。
古渡城(Hp参照) 【城郭の歴史】  織田信秀が天文3年(1534)築城したと云われる。信秀はそれまで今川氏豊から奪した那古野城にいたが、その子 信長に那古野城を譲り、ここに移った。信長はここで天文15年(1546)13歳で元服したと伝えられる。 城は東西140m、南北100mの平城で、周囲に二重の堀を巡らしていたと云われる。天文17年、信秀が末森城に移り廃城 となった。(現地案内板より)

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