一宮友歩会・第37回ウオーク例会(下・下見・例会参加)(
詳細版・ 拡大版)
 史跡巡り岐阜編Part5 (中山道・新加納立場他)
  (下下見:平成23年10月7日(金)天気:晴れ・下見H24.2.18(土)晴れ)
(例会:平成24年4月14日(土)天気:雨のち晴れ 参加者35名) (歩数:35,553)

コース:7:10自宅発(おにぎり等持参)→名鉄羽島市役所前7:37→笠松・新岐阜乗換・明電各務原8:42頃着>
各務原中央公園・準備体操他9:10発→炉畑遺跡→羽島用水→前渡不動→各務原浄化センター→羽島用水→
→三井池公園(昼食)→各務原市民公園→市民公園前駅(Sコース)→新境川→手力雄神社→善休寺・少林寺→
→中山道・新加納立場→名鉄新加納駅(ゴール)→新岐阜→笠松→江吉良駅→帰宅 
コースマップ参照(PDF)
(歩数:下下見H23/10/07歩数36,461歩下見H24/2/18歩数32,114歩 9名、例会H24/4/14歩数35553歩参加者35名)

炉畑遺跡羽島用水(解説)手力雄神社中山道新加納立場(Web)PDF版各務原市承久の乱
新境川と百十郎桜旧桜井家 各務原市小学校区別ウオーキングコース参照


名鉄名電各務原駅001

各務原中央公園(集合・受付)004

雨天となったが35名の参加があった14001

工場の緑壁を通って炉畑遺跡公園へ向かう005

花絨毯の遺跡群14004

炉畑遺跡公園011

炉畑遺跡(縄文時代)008

学芸員から説明を聞く14012

旧桜井家(炉畑遺跡公園内)kak013

旧桜井家の内部14013

旧桜井家の内部14014

竪穴住居の骨組みkak005

3号住居kak005

炉畑遺跡の説明を聞く14019

1号住居kak007

羽島用水路暗渠(犬山頭首工から取水)018

浄水公園から見た不動(矢熊)山(88m)kak020

前渡不動(矢熊山頂に承久の乱合戦供養塔がある)021

各務原浄化センター028
水処理施設の他四季の森、バラ園、キャンプ場などがある

浄化センター敷地内にある前渡の渡し跡030
1584年頃から江南市草井と交通

猿尾堤の石垣kak022

猿尾堤kak024

猿尾堤032

羽島用水(取水口は犬山頭首工)035  TOP

羽島用水(暗渠)解説参照038

山脇分水工040

上戸排水機場043

三井池公園/排水機場の隣(昼食予定)046

三井池公園桜散る頃14024

三井池公園で昼食14029

三井池公園は桜花が彩りを添えていた14040

三井池は境川(旧木曽川本流)が堰き止められ出来た池14046

三井池公園の春14051

池之宮神社049

三井山ふれあいの森(頂上からの展望は絶景とか)14033

各務原市民公園054

岐大農学部があった市民公園の巨木の並木kakam011

岐阜大学農学部跡の石碑(市民公園内)kakam004

名鉄・市民公園前駅(Sコース)059

新境川(左)と百十郎桜(全国桜の名所100選)061

桜の古木が並ぶ(新境川と百十郎桜wp参照)kak029

新境川065   TOP

新境川沿いの桜の古木14060

新境川沿いの百十郎桜14070

旗本徳山陣屋の住居跡(下下見)074

旗本徳山陣屋公園(下下見)068

手力雄神社kak030

手力雄神社082      TOP

龍の雌雄(東側)14076

龍の雌雄(西側)14077

手力雄神社本殿083

善休寺(尾張徳川家の狩りの宿所とされた)094 TOP

善休寺kak038

善休寺の葵の紋の瓦kak045

善休寺本堂(本尊は阿弥陀如来像)kak042

少林寺内東陽英朝禅師塔所の稲荷堂099

少林寺は旗本坪内家の菩提寺14083

坪内家は5533石、内分寄合の格式14084

少林寺(旗本坪内家が再興した)096

坪内家の御典医今尾家(現在今尾医院)101

坪内家の御典医今尾家14091

中山道新加納立場の説明14096

間の宿の新加納立場一里塚標柱kak037

ゴールの名鉄新加納駅086   TOP
承久の乱(wikipedia参照)meiw022   2011.10.07  (前渡不動内)  TOP

承久の乱(wikipedia)
承久の乱は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱。
承久の変、承久合戦ともいう。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢と
なり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。以下の解説は玉川大学の解説
ですが、耕作地(荘園)を巡る公武の階級闘争の様子や見解が理解できるので掲載します。  TOP

玉川大学の承久の乱解説         TOP 頼朝は全国に守護・地頭をおきました.しかし実際には近畿地方・北陸地方・中国地方・四国の瀬戸内側・九州 の北部などでは,平氏が持っていた荘園以外に地頭を置くことはできませんでした.それでも荘園が寄進されて いく過程の中で,平氏に少しでも関わりのあった荘園には地頭が置かれていきました.配置された地頭の中には 勝手に年貢をとって自分のものにしたり,土地を奪ったり,農民を自分の支配下におこうとする者もあらわれた. そうした荘園を持つ貴族や皇族も多くいたわけです.またこのころになると,荘園整理令によって数多くの荘園 が摂関家から院に移っていきました.しかし実際にこれらの荘園を開拓し農地を作って管理しているのは豪族, つまり武士だった.平家を撃ち破り力をつけた武士は.鎌倉将軍と主従関係をもち「ご家人」になると,いま さら名目上の領主である,貴族や院に年貢を払わないという者もあらわれた. つまり,貴族や皇族にとって地頭を送ってくる鎌倉幕府は「目の上のたんこぶ」,邪魔者でしかなかったのです. 東国の荘園はそのむかし,摂関家(藤原氏などの有力な貴族)あるいは大きな寺社(東大寺や伊勢神宮など)に 寄進されてきた.荘園の実際の持ち主は豪族ですが,年貢を少しでもやすくしたり,境界争い,それに役人から の嫌がらせ(金を出せとか,勝手に領内の人間を使ってしまうなど)から自分の領地をまもる工夫をしました. 自らは荘園の管理人という地位になって,名目上の持ち主を力のある摂関家や寺社にしていたわけです. こうした荘園のことを学問上「寄進地系荘園」と呼びます.しかし,東国に武士の政権ができ新しく自分達を まもってくれる将軍と主従関係を結んだ今,新しく自分の領地を院や大寺社に寄進するものなどあらわれるはず がありません.つまり京都にいる貴族や院や大寺社は東国からの荘園寄進がパタっと無くなってしまったという わけです.後鳥羽上皇はスポーツ万能,楽器もできて双六などのゲームにも強い,しかも競馬,流鏑馬 (やぶさめ)など武士さながら武芸にはげみ,その上当時一番の教養だった和歌を作ることにも優れていました. 有名な「新古今和歌集」はこの人が作ったと言われています.つまり,歴代天皇の中でもピカイチの天皇から 上皇になった人です.上皇となれば朝廷からは退きますが,実際には院にはいり天皇に大きな影響力を与えて いた.こうした政治を院政とよびます.院政は平安時代の終わり頃から行われるようになり,天皇を頂点とする 朝廷よりも力があったために荘園の多くが院に寄進されるようになりました.つまり後鳥羽上皇は日本一の荘園 の持ち主でもあったわけです.ところが幕府ができて、荘園に配置された地頭が年貢を払わなくなったり,東国 からの荘園寄進もなくなったのです.上皇は優れた人でもありましたがそれだけにワンマンでした. 「日本で一番偉いのは俺だ.なのに鎌倉(幕府)はなんだ.北条氏はなんだ!」と思うのは当然のことでした. 承久3年(1221年)5月14日後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」と称して集めた諸国の武士1700人あまり に対して,北條義時(鎌倉幕府の執権)を討てという命令を出しました.この時何も知らされていなかった武士 は一瞬とまどいましたが,その多くが上皇につくと約束した.同時に幕府と親しかった貴族,西園寺公経・実氏 (さいおんじきんつね・さねうじ)親子を捕らえ,京都にいたご家人中ただ一人上皇の命令をこばんだ京都守護 の伊賀光季(いがみつすえ)の館をおそう命令を出しました.伊賀光季の館は翌15日に襲われ,光季親子は 勇敢に戦いますが昼過ぎに討たれて死にました.頼朝が死に頼家と実朝が暗殺されたのを知った上皇は,幕府 内部で有力ご家人同士が争うだろうと判断しました.特に北条氏と三浦氏の実権争いはかねてより上皇も知って おり,京都にいた三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)から,「上皇が北条氏にかわって兄に関東を治め ろ言えば,北条氏をやっつけることでしょう」という言葉を心地よく聞いていた. 「そうだろう,ひとたびこの俺が宣旨(せんじ=命令)を出せば,日本中の武士が集まってくるに違いない」 そう思い込んでしまったのです.ワンマンだったために周囲には冷静に情勢を判断できる人や,上皇を諌める 人がいなかったのです.これは現代にもいえることですね・ ひとたび宣旨が下れば日本中の武士が朝廷側につくだろうと思っていた上皇やその側近たちの期待とは裏腹に, 実際の動きは上皇たちの考えとはまったく逆の方向に動いていきました. 上皇方は5月15日に宣旨を発し,三浦義村をはじめとする全国の有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」 という密書を送りました.ところが,親幕派の伊賀光季と西園寺公経からの急使もまた鎌倉に急を知らせたの です.・・・ここから鎌倉方(幕府)の大逆転が始まったと言ってよいでしょう.  当時の東海道は整備されたとは言え,京都と鎌倉間は徒歩で約16日,場合によっては数十日を要しました. 大きな川に満足な橋は架かっていません.その上,雨が降ればぬかるみ状態が数日も続きました.各駅には伝馬 が用意されていますが,早馬でも7日はかかるのが普通で,至急の場合でも5日間かかりました. 3日半で京から鎌倉まで走りきった3名の急使は,休みはおろか,眠らずに駆けたに違いありません. 押松丸も光季の使いとの差を4時間ほど縮めています.可哀想に葛西谷辺りをうろついていた押松丸は,捕らえ られて宣旨を取り上げられてしまいました.幕府はわずか5時間の差で先手を打ち,御家人の掌握に成功した のです.「友を食らう」と評された三浦義村でさえ密書を持って幕府に駆けつけてきました.御所の庭に集まっ た御家人のほとんどは,「何が何だか良く分からない」状態です.京都方と戦うかもしれないといううわさ話も あったかもしれません.動揺や不安もあったでしょう. そこへ政子達が現れて先の演説になったというわけ です. 幕府首脳は,その日のうちに上皇軍と戦う作戦を立案し,軍団編成の大まかなプランも整えました. 急使が来てからの幕府の動きはまことに素早く当を得たものでした.宣旨さえ出せば関東の武士はことごとく 院・朝廷になびくだろうという思い違いをしていた上皇方とは大きな差です.押松丸の出発が遅れたのも上皇方 の緊張感の無さを表しています.こうして敵の先手をうまくかわした幕府は乱に勝利しました. 幕府はおよそ20万の大軍を京都に向けました.当時の京都への道は中山道:東海道:北陸道がありましたが, 移動する軍団の規模から分かるように,この時期すでに東海道がメインであったことが分かります. 東海道を西上する主力軍団の司令官は後に武士の法律「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を作り名執権と よばれる北条泰時でした.この素早さとは逆に朝廷(上皇)方の動きは鈍いものでした.幕府軍が大挙して京都 を目指していることを知った朝廷(上皇)軍は慌てて木曽川に防衛ラインを敷こうとしましたが,彼等がつくか つかないかうちに,幕府軍の攻撃が始まりました.5日に始まった戦いはわずか1日で決着がつき,朝廷軍は 総崩れとなり敗走しました.このことを知った京都では貴族から民衆までが幕府軍の攻撃を恐れ西へ東へ逃げ まどいました.上皇は自ら武装し軍団を指揮して京都宇治川に防衛ラインを敷きますが,6月14日ついに濁流 を突破した幕府軍がなだれ込み,ついに幕府の大軍は京都に侵入しました. 承久記ではこのときのことを次のように書き記しました。 「板東方(ばんどうがた=東国=鎌倉方のこと)の兵ども,深草・伏見・岡屋・久我・醍醐(だいご)・日野・ 吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳(は)せ散り馳せ散り,あるいは1,2万騎,あるいは4,5千騎,旗の足 をひるがえして乱入す.大臣,北の政所(きたのまんどころ=摂政の妻),女房,局(つぼね),若い女房, 遊女にいたるまで,声をたて,をめき叫び,立ちまよう.天地開びゃくより王城洛中のかかる事いかで有らじ. かの保元のむかし,また平家の都を落ちしも,是ほどにはなかりけり.名をも惜しみ,家を思う重代の者共は, ここかしこの大将にさしつかわされて,あるいは討たれ,あるいはからめとらる.(中略)戦したるすべも知ら ぬ者どもが,あるいは勅命(ちょくめい=天皇の命令)にかりだされ,あるいは見物のためにい出くる輩 (やから)ども,板東の兵に追い詰められたる有り様は,ただ鷹の前の小鳥のごとし.射殺し,切り殺し,首を とること若干なり.板東の兵,首一つづつとらぬものこそなかりけれ」朝廷では討幕派に捕らえられていた 西園寺公経が復帰し,新しく後鳥羽上皇の兄である行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)の子を天皇 (後堀河天皇)とし,父である行助法親王は天皇になったことはないのに「後高倉院」として異例の院政を行い ました.以後は西園寺公経を中心とした幕府よりの朝廷になっていきました.さらに,幕府軍の総指揮官だった 北条泰時と「おじ」の時房は京都にとどまり,朝廷を監視したり近畿地方のご家人の統括をするための六波羅 探題(ろくはらたんだい)を作りました.以後,六波羅探題は幕府の出先機関として,朝廷と近畿地方の幕府に 対する反逆を抑える,重要な役割を果たしました. 乱の後,幕府から近畿地方の国々に調査のための役人が派遣(はけん)されました.彼等は上皇方についた武士 を徹底的に調べました.その上で彼等の領地をすべて没収したのです.その数は3千ケ所と言われています. これによって,これまで幕府側が手を出せなかった西国の荘園にも新たに地頭を配することができた.地頭の 多くは東国から派遣された武士です.こうした地頭のことを学問上「新補地頭」(しんぽじとう)とよびます. この後,彼等の多くはじわじわと荘園を侵略し,やがて荘園の半分を自分達のものにしていきました. 東国の武士は長い間,祖先が拓(ひら)き自らが体をはって守り抜いてきた大切な領地を,国司をはじめ強力な 豪族からまもるために,やむをえず縁もゆかりもない京都の権門勢家(貴族や大寺社などの有力者)に寄進して きました.言い換えれば,東国の武士たちは200年の長きにわたって京都に搾取され続けていた存在と言える でしょう.日本に,もし革命と呼ばれるようなものがあったとしたら,それはまさに頼朝の旗揚げとこの承久の 乱といっても過言ではない.源平争乱の後,義経がかってに朝廷から官位をもらったということで頼朝は激怒 します.それは常に京都の公家や寺社にへつらい,朝廷に支配され続けていた武士が,長い間の束縛から解放さ れ「武士の,武士による,武士のための政治」を目指している頼朝や,頼朝を担ぎ上げた東国の武士たちの思い を踏みにじるものであったからです.頼朝の旗揚げは平家打倒という看板をあげながらも実は「武士の事は武士 がおこなう」という「東国武士による京都からの自治権の獲得運動」でした.それにくらべて今回の承久の乱は あきらかに朝廷に対する反抗で,頼朝や彼等の父が築き上げた武士の政権,武士の利益を守り抜く戦いであった のです.上皇の誘いに乗らず鎌倉方が一致団結できたのはまさにその点にあります.承久の乱は,いわば京都に 支配されていた東国の独立運動と言ってもよいのです.頼朝が武士政権のレールを曵(し)いたとすれば, 承久の乱はいよいよレールの上を列車が動き始めた状態です.
このときはすでに源氏は絶えて幕府は北条氏を中心とするご家人の集団指導体制へと移行していました.   TOP

北条政子(wikipedia) 上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた 声明を出し、動揺は鎮まった。『吾妻鏡』や『承久記』には北条政子が鎌倉武士を前に、 「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。 秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが 良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した記述がある。   TOP
新境川と百十郎桜(wikipedia参照)meiw062   2011.10.07     TOP
手力雄神社本殿と龍の雌雄meiw084   2011.10.07       TOP
中山道新加納立場(Web)        TOP

中山道新加納立場の解説meiw088   2011.10.07 PDF版)解説参照   TOP


龍慶山少林寺:臨済宗妙心寺派      TOP
新加納の西端に位置。室町時代の薄田氏の菩提寺。禅僧・東陽英朝開山創建。その後慶長6年(1601年)領主の
旗本坪内氏の菩提寺となり、歴代の墓がある。


遇光山善休寺:(真宗大谷派)
開基念願。格式のある三筋塀は京都本光院の祈願所として定められた。屋根の葵の紋は尾張徳川家の狩りの際、
宿泊所となった為許されたもの。


日吉神社:(祭神 大山昨神おおやまぐいのかみ)
大津の総本宮日吉神社の分祀社。蛙にまつわる言い伝えが有り、拝殿前に石造りの狛蛙が奉納されている。
中山道沿いにある定書には蛙の捕獲禁止の条が書かれている。


玉鳳山瑞眼寺:臨済宗妙心寺派
瑞眼寺は新加納駅の北にありもとは極楽寺という禅宗の古刹。享保13年(1727年)中山道を西上した晦堂玄驍ヘ
極楽寺の荒廃を目にして領主坪内氏に願い、一宇を再建。このとき極楽寺を瑞眼寺と改め現在に至っている。


坪内陣屋:
旗本坪内氏の初代玄蕃利定は織田信長に仕え合戦に功をあげ、徳川家康にも仕えて慶長5年(1600)関ヶ原の
戦いで父子共に効をあげ、美濃国の羽栗・各務2郡で6530石を受領。利定以降11代定益まで続き、明治元年
采地を奉還した。その間、鉄砲頭、定火消、百人組頭、御書院番頭などを務めた。
坪内分家としては前渡、平島、三井がある。


梅村屋:
新加納一里塚付近に有り、立場の中心的存在が梅村屋であった。煮売茶屋から始まり、後に坪内陣屋への訪問
客の接待所としても使われ、幕末に至ると小休本陣・旅籠などを兼ねた。
皇女和宮降嫁の際には一行はここで休息。薬舗も兼ね、「せんき妙薬本家」の看板が残り、かつての商いの様子
が窺われる。
(以上、各務原歴史研究会の資料による)      TOP

旧桜井家(各務原市HP参照)(W画像解説参照)           TOP
桜井家は明治4年(1871年)養蚕農家の住宅として建てられた。
昭和51年9月16日、各務原市の重要有形民俗文化財に指定された。 
住宅は、間口18.7メートル、奥行9.5メートルの平入造り、屋根は現在はトタンに覆われていますが、
元は藁葺きでした。間取は四八(よはち・8畳間4つ)・仏間(2畳)・隠居部屋(4畳)・土間(玄間と炊事場)
・三尺廊下(南北両側)・馬屋となっていて、この地方の典型的な自作農家の家屋です。
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炉畑遺跡(Wikipedia)へ                     TOP
炉畑遺跡(ろばたいせき)は、岐阜県各務原市にある各務原台地のほぼ中央に位置する縄文時代
中期〜晩期の集落遺跡である。2006年に現在の炉畑遺跡公園として整備され、縄文時代の風景や
生活スタイルを体感し遊びながら縄文時代を学べる。岐阜県指定史跡に指定されており、また
出土品が岐阜県指定重要文化財に指定されている。
 概要 
1966年(昭和41年) - 土地改良工事の際発見される。現在までに6回の発掘調査が行なわれ、
10基以上の竪穴式住居跡や、高床式倉庫の原型の倉庫、石囲炉の遺構が検出された。
その他、多数の縄文式土器、石器などの道具や、棺が見つかっている。 
1974年(昭和49年)- 遺跡が岐阜県指定史跡に、出土品が岐阜県指定重要文化財にそれぞれ
指定される。
2001年(平成12年) - 6基の竪穴式住居が再現されていたが不審火で焼失する。 
2006年6月(平成18年) - 炉畑遺跡公園として再整備される。 
炉畑遺跡公園の北側に新たな遺跡が発掘され、公園の拡張を予定している。 

炉畑遺跡公園Web解説各務原市歴史民俗資料館hp各務原市観光案内(歴史)hp  TOPへ


羽島用水物語(HP)羽島用水路写真集(東海農政局)
「羽島用水」(Wikipedia参照
(はしまようすい)は、岐阜県各務原市と愛知県犬山市の県境である木曽川犬山頭首工を取水源と
する農業用水。
濃尾用水(羽島用水、宮田用水、木津用水)の一つである。
「地理」
犬山頭首工にて他の濃尾用水とともに取水する。羽島用水のみが岐阜県各務原市側に取水口がある。
各務原市内の伊木山、不動山は
地下水路として潜る。その後新境川と交差し、各務原市稲羽地区(旧稲葉郡稲羽町)を通過し、
羽島郡岐南町、笠松町と通過する。笠松町田代(でんだい)の田代分水工で西と南に分流する。
西への分流は岐阜市柳津町(旧羽島郡柳津町)から羽島市足近町を通り、羽島市竹鼻町で逆川に
合流する。逆川は羽島市福寿町で長良川に合流する。
南への分流は笠松町松枝地区から羽島市正木町を通り、羽島市竹鼻町で逆川に合流する。  TOP

羽島用水地区:所在地:岐阜県 岐阜市・羽島市・各務原市・岐南町・笠松町 農地面積:1,832 ha 本地域は木曽川、長良川の流域に発達した濃尾平野の一角、木曽川右岸に位置している。 昭和7年(1932)県営羽島用水改良事業により、羽島用水の取水口が完成され現在の羽島用水の原型 となった。その後上流に水力発電ダムが数多くできたため水管理に支障を来し、また土砂が流れて こず、洪水毎に河床が低下、流心は移動し、その都度導水路の移動、新設を繰り返した。 木津、宮田、羽島の三用水は結託し国営濃尾用水事業(昭和32〜43年)にて取水口を犬山頭首工に合口 し、現在の安定した取水が可能となった。 参考:羽島用水物語                     TOP

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