一宮友歩会・第26回ウオーク例会(下見・例会)(詳細版・拡大版)
史跡巡り東尾張編Part3参加
(下見:平成22年4月24日(土)天気:晴れ)(例会:平成22年6月5日(土)天気:晴れ)
★コース:7:10自宅発(おにぎり等持参)→名鉄バス5番乗り場岩倉行き8:00→岩倉駅8:35着→
→神明生田神社→出発9:20→五条川左岸浄化センター→宇都宮神社→甲屋敷古墳→
→間々観音→小牧市歴史館→西町稲荷堂→岸田家→木曽街道→名鉄小牧駅ゴール→帰宅
(今日の歩数:下見歩数29013歩、例会60名 歩数32470歩・早朝歩数含む)
(★見所説明は、友歩会第26回例会案内参照)(★小牧山下記解説参照) ★小牧周辺配陣図
★神明生田神社(加藤さんのブログ参照)★五条川左岸浄化センター★宇都宮神社古墳★甲屋敷古墳
★間々観音(wikipedia)★小牧神明社★陸軍大将渡辺錠太郎の碑★小牧宿(Wikipedia)
★五条川左岸浄化センターの解説
名鉄一宮駅Dバス停 出発は8:00岩倉行8:35着 例会時は、車で岩倉市役所に駐車(8:00以降可) |
岩倉神明生田神社の一豊生誕の碑 ★一豊についてはWikipedia参照 |
神明生田神社東の五条川と桜の木 iks006 |
ハナミズキがきれいに咲いていた |
五条川左岸浄化センターの説明okt014 |
最終沈殿池(活性汚泥法)okt017 |
コンポスト棟(汚泥の堆肥化)okt020 |
初夏快晴の田園地帯(後ろはセンター)を行くokt024 |
五条川左岸浄化センター(沈砂池、沈殿池、反応糟 揚水ポンプ糟、急速砂濾過池、コンポスト棟、焼却施設 汚泥管理・処理棟等からなる。) |
日吉神社のクスノキ(樹齢500年根周10.3m胸高7.5m 樹高22m、小牧市内最大。小牧市指定天然記念物) 西側に幹割れの洞穴がある。 |
神社の外からみた楠 |
浄音寺古墳の説明 okt029 |
県指定史跡★宇都宮古墳(解説:宇都宮神社古墳) |
宇都宮神社で休憩 okt036 |
宇都宮神社 |
甲屋敷古墳(解説) TOP |
間々観音(wikipedia) |
人が近づくと乳房から水が出る TOP |
間々観音本堂 |
★史跡小牧山帯曲輪地区発掘調査(★wikipedia) |
小牧山の新緑(山頂)@ |
小牧市歴史館 |
小牧・長久手の合戦屏風★(戦いの概要説明) |
小牧・長久手の合戦(歴史館内展示) TOP |
小牧山の新緑A |
小牧市祭の山車 |
★連理木(★小牧神明社解説) |
★陸軍大将渡辺錠太郎の碑(西林寺内) TOP |
陸軍大将渡辺錠太郎の像okt122 |
原敬公手植の槇が右手にあるokt126 |
★蟹清水砦跡(←当時の位置確認) 小牧・長久手の合戦時徳川方の砦(下図) |
★木曽街道沿いの★小牧宿旧家(岸田家) 右上は屋根神様 |
岸田家の屋根裏の梁okt145 |
★福禄寿石像(岸田家北に隣接)(wikipedia参照) |
木曽(上)街道を行くokt150 |
清須道との分岐点に立つ標識 |
間々観音(wikipedia) ★TOPへ 甲屋敷古墳(こうやしきこふん)(★wikipedia参照) ★TOPへ 甲屋敷古墳とは、愛知県小牧市にある古墳時代の古墳である。本格的な調査が行なわれていないため はっきりとしたことは解かっていないが、出土品から3世紀末から4世紀頃に建設されたと考えられている。 古墳の高さは約5m、直径約30m。現状円墳のように見えるが、現在すでに3分の2程が破壊されたと見られて おり、建設された当時は前方後方墳か前方後円墳であったのではないかと考えられている。 内部構造は粘土槨。1978年3月には出土品である三角縁神獣鏡が小牧市の有形文化財に、また1992年8月に は古墳全体が同市の史跡に指定されている。★五条川左岸浄化センターの仕組みは拡大版のこちらをご参照ください。 |
★小牧市歴史館★小牧市★史跡小牧山★小牧山案内図★五条川左岸浄化センター★愛知県下水道部 ★岩倉市★岩倉市wikipedia |
小牧長久手合戦 小牧周辺配陣図 ★TOP ★史跡小牧山から引用(←参照) 小牧・長久手合戦 天正12年3月、秀吉軍の池田恒興は、犬山城を奇襲して 占拠、森長可は羽黒の八幡林で家康勢と戦って敗れた。 秀吉は大坂で長可が敗れたことを聞き、直ちに三万の兵を 率い、大垣から犬山へ着き戦況を聞いて、小牧山を北東 から包囲するよう各武将を布陣させた。 そして、みずから楽田に本陣をかまえた。 一方、信雄・家康連合軍は、小牧山に本陣をかまえ、 小牧山から東へ連砦を築き、秀吉軍に対した。 これで両軍の戦闘準備が整い、今にも天下分け目の戦い が開始されるばかりとなった。しかし、二度の小競り合 いがあっただけで、互いに相手の出方をうかがい、両軍 に大きな動きは見られなかった。 4月にはいって、秀吉軍に動きがあった。それは、家康 の本拠地岡崎を奇襲しようという恒興の進言を、はじめ 取り入れなかった秀吉が聞き入れ、作戦が始まったので ある。 4月6日夜半、3万7千余の大軍を四隊に分け、 第一隊恒興、第二隊長可、第三隊堀秀政、第四隊三好 秀次を隊長として、楽田から物狂峠を越え、山裾に そって大草、関田を経て上条に野営し、庄内川を渡って 長久手方面へ向かった。 しかし、この動きは、家康側に通ずる篠木の住民により 小牧山の家康の本陣に通報された。それを聞いた家康は、 ただちに水野忠重に命じて小幡城に向わせ、自らは 9300の兵を率い、如意、勝川を経て庄内川を渡り、 小幡城へ入った。 4月9日早朝、家康軍先遣隊は白山林で秀吉軍の秀次隊を 打ち破った。秀次隊は援軍を秀政に願い、秀政隊は桧ヶ根 で家康軍先遣隊をいったん打破した。 しかし、力を使い果たして、ついに北方へ退却した。 家康軍本隊は長久手に進み、恒興・長可両軍を迎えたので 、ついに一大決戦がはじまった。 戦死したので、同軍は崩れた。この日の戦いで、両軍の 死者は秀吉軍2500、家康軍550であった。 この敗報を聞き、秀吉は2万の兵を率いて長久手へ向かっ たが、家康はいち早く兵をまとめ、遠回りして小牧山へ 帰った。夜が明けて、このことを知った秀吉は、何らなす すべもなく、兵を率いて楽田に帰った。 その後、両軍のにらみあいが続いたが、大きな合戦をする こともなく、5月1日、秀吉軍の主力は小牧地区から退き 、又家康軍も7月中旬には兵を引いた。 この年、11月、桑名で秀吉と信雄が和議を結び、次いで 信雄のすすめで家康も秀吉と和解し、8ヶ月にわたる小牧 ・長久手の戦いは終わった。★史跡小牧山(引用参照) |